2008年06月21日

リスボン条約批准に対するアイルランド国民投票の否決 この記事をはてなブックマークに登録

欧州憲法条約が2005年にオランダとフランスで否決されたのに続き、
先日リスポン条約がアイルランドでの国民投票によって否決されました。

オランダとフランスでは前回に鑑み、国民投票を行わなかったのですが、
(オランダは批准前、フランスは2月8日に国会で批准)
今回のアイルランドの否決によりリスボン条約の発効が
一歩遠退くことになりました。
国民投票を批准に際して行った(行う予定の)国はアイルランドのみです。

僕はこのニュースを知ったとき、なぜアイルランドがと疑問に思いました。
EU加盟以前は非常に貧しい国であったのにもかかわらず、EU加盟後は
著しい経済成長を遂げ、国民一人当たりのGDPもEU加盟国の中では
ルクセンブルクに次ぎ、二位という成長ぶりです。

EU加盟国中、小国ではEU加盟によってかなりの経済的恩恵を
受けている国なはずです。

それだけに今回の否決は、アイルランドが否決したのか、
と予想外でした。しかしそれは落胆や驚愕というよりは、
どうして否決されたんだろうという疑問の方が強いです。

国民投票の投票率を見ても、53.1%は低い数字だし、
そもそも国民がリスボン条約やEUのこれからの動きを
理解していなかったことが原因なのかもしれません。
分らないままにYesと言うのにも抵抗があるからです。

各国の国民がEUに対して関心が薄いというのは全体の傾向として
あると思います。そもそも各国の枠組みを超えて行われる政策が
あまりにも国民の実感とかけ離れているのも原因なのでしょう。
各国が国民を説得出来なければ国民投票で可決されることはありません。

リスボン条約は、これまでの全ての条約をまとめて一つの憲法とする
大きな欧州統合への一歩である欧州憲法が頓挫したのを受けて、
欧州憲法の主要な変更をそのまま残しつつ、憲法の形は取らない条約でした。

最後に発効している2001年のニース条約では
2004年に加盟した十カ国、2007年に加盟した二カ国を加えた
27カ国の加盟国による意志決定プロセスに対応しきれず、
そうしたことを改善するためにも新たな変更が求められています。
2010年には、今後の加盟交渉が順調にいけば、
クロアチアとマケドニアが加盟予定です。

全会一致の意思決定は現27カ国ではかなり難しく、
今後は特定多数決方式が採用される分野を拡大することや、
特定多数決方式自体を簡素化することもリスボン条約には
盛り込まれていました。

欧州のさらなる統合は経済発展などの良い面ばかりではなく、
移民問題や、小国では大国に負けることによる経済停滞などもあります。

そうしたマイナス面も解決しつつ、国民にEUがどういうものであるのかを
しっかりと理解してもらうのは非常に時間がかかることなのかもしれません。


一方、僕が旅行していて気付いたこととして、

ヨーロッパ人(European)としての意識というのは
徐々に国民に根付いていくのかもしれない

ということがあります。

例えば、不幸ながら僕は旅行中にスーツケースをスロベニアで破損し、
その場で旅行を中止にすることは絶対に避けたかったので、
Samsoniteというメーカーのスーツケースを買いました。

そのケースの全面に貼ってあるシールには、
”Made in Europe”(ヨーロッパ製)とあり、
ヨーロッパと言われてももしかしたら技術力の低い
国で作られたのだとしたら、信用できないじゃないかと
思うのと同時に、こうしてヨーロッパ人としての意識が
芽生えていくのかもしれないなと感じました。

イタリアの電車の窓ガラスにはEurograssとあったりもしたし。

また、シェンゲン協定というヨーロッパ諸国間の人の自由に関する
協定に加盟している国(イギリスを除く)では、EU加盟国の人々は
IDを見せるだけで出入国審査は必要ありません。

また、デンマーク、スウェーデン、イギリスを除くEU加盟国では
Euroを使うことが出来、両替をする必要がないので便利でした。

こうした根本的な変化が徐々に国民意識を変えていくのかもしれません。
posted by Jack at 12:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年02月18日

コソボ独立宣言と、それに対する影響などへの考察 この記事をはてなブックマークに登録



現地時間17日午後、コソボ自治州議会において独立宣言が採決されました。

コソボではNATOによる1999年の空爆を含む紛争があり、
その後も独立などを含めEU、米、露の仲介による交渉が進められて
きましたが、去年の末に決裂。今回はその延長として自治州から独立国への歩みを正式に始めることになります。

EU、米などを含む大部分の国々でこの独立は承認される見込みですが、
セルビアとロシアは断固反対姿勢を見せています。


簡単に復習しておくと、
コソボはセルビア共和国南部に位置している自治州であり、
南西部でアルバニア、南東部でマケドニアに接している地域です。

この自治州では、住人の構成がアルバニア系約九割、セルビア系が一割
というアルバニア系多数の地域であり、それが紛争の原因にもなりました。
そして以前よりセルビアからの独立を試みて来ました。


今回の宣言に関して考えたい事が二つあります。

一つは宣言後の影響について。
まず考えられるのがコソボ内でのアルバニア系による
少数派セルビア人への弾圧強化です。

それを懸念してかセルビアの他地域へ逃げるセルビア系住民もいるよう。(参照


また、他国内で独立を試みている地域に刺激を与えることも
懸念されます。

東京新聞が詳しく触れていたので参考に一部抜粋してみると、
コソボ独立宣言 民族主義“飛び火”懸念

 コソボ南隣のマケドニアでは、政府軍とアルバニア系武装組織との戦闘が沈静化して間もない。マケドニア政府は国内アルバニア人の感情があおられないかと気をもむ。グルエフスキ首相もコソボの国家承認には「国益の観点から情勢を注視したい」と歯切れが悪い。

 二千キロ離れたスペイン北西部バスク地方からの視線も熱い。同地方はスペインからの独立を求める非合法組織「バスク祖国と自由」(ETA)が活動し独立志向が強い。地元紙は連日、コソボ情勢を報じる。飛び火を恐れるスペインは、EUの方針に反してコソボの承認は拒否する構えだ。

 キプロスやクルド、アゼルバイジャンのナゴルノカラバフ自治州など、同様の争いを抱える地域は数多い。

独立後アルバニアと合併するようなことは無いと言われていますが、
こうしたことを心配してか、EU加盟国の一部では独立を承認しない国もあるようです。



もう一つ気になるのがロシアの反応です。
同じスラブ民族としてセルビアの動きを支持しようとする
流れはあるのかもしれませんが、ただそれだけでこのような
反応をするのは少し納得がいかないというか違和感が残ります。

いくつかの思惑があるのだと思いますが、
少しこれはロシアのエネルギー戦略と関わってくる部分があるのかな
という気がします。

asahi.comより全文転載してみると(参照)、
ロシアとセルビアは25日、ロシアの天然ガスを黒海を経てイタリアなどに輸出する南欧ルートのパイプラインをセルビア領にも建設することで合意した。モスクワでのプーチン・ロシア、タディッチ・セルビア両大統領の首脳会談の後、合意文書が調印された。

 天然ガスの直接輸出を通じて南欧地域への影響力拡大を目指すロシアは、18日にブルガリアの同ルート参加で合意したのに続いて外交上の得点をあげた。首脳会談でプーチン氏は、「セルビアからのコソボ自治州の一方的な独立に反対する」と改めて表明。こうしたロシアの政治的支援を必要とするセルビアと、ロシアの経済的利益が一致した形となった。

 合意によると、両国は今後30年間にわたって石油と天然ガスの分野で協力を推進。ロシアはセルビア領に全長400キロのパイプラインを建設するほか、セルビア唯一の石油供給・精製会社の株式の51%を取得する。また、セルビア国内に設ける3億立方メートル規模のガス貯蔵施設の整備や運営にも関与してゆくという。


地勢的に言うと、ロシアから黒海を越え、
ブルガリア→セルビア→イタリアという一本道が出来るわけで、
セルビアはブルガリアに続いて重要な拠点となるわけです。
パートナーなんですね。

そういう意味ではセルビアの味方をするというのは当然と
言えるのかもしれません。


EUはもちろんコソボのEU加盟、その後将来的にはマケドニア、クロアチア、
アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、そしてセルビアをも
メンバーにしようと考えているのではないでしょうか。

今回の独立プロセスはEUの大きな影響下において
進められます。経済的にコソボは経済後進国なのでそういった点での
改善も視野に入れられているのでしょう。


独立宣言で一つポイントなのが世俗的で他民族な国家という部分です。
アルバニア人はオスマン=トルコの影響下にあった背景で
ムスリムが多数を占めている一方、セルビア人は正教会系です。
その為宗教色を出さない世俗と言う部分は重要でしょう。
他民族というのもセルビア系に対する排斥運動を国家が容認しない
という意味で必要不可欠です。(参考



最後に僕が持ってる疑問を少し。
ロシアが反対する理由の一つとして国際法に反するという
のを挙げていたのですが、これは本当なのでしょうか。
この辺は良く理解していないので、知っている方がいれば
教えていただきたいと思います。
posted by Jack at 10:37 | Comment(2) | TrackBack(3) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月22日

ニセ科学批判に関する個人的な考察(草稿) この記事をはてなブックマークに登録

[学問][雑記]「いっちょ有効なニセ科学批判批判論でも考えてみるか→すぐに挫折」から考えたこと
という記事を読ませていただき、
そこにあったコメント群の議論についても精読というほどではありませんが、
大まかな話は把握させていただきました。

もやもやしている部分を出来るだけ整理するためにも、
こうして記事を上げて読んだ内容に関して考えてみようと思います。


ニセ科学に関する考察。

ニセ科学批判やニセ科学批判批判というものが現在あり、
それをめぐっていくつもの議論が起こっています。

順序としては、ニセ科学と呼ばれるようなもののなかで、
例えば水に言葉が伝わるというような説があり、それは違うということを
声に出す人が出てきました。それがニセ科学に対する批判です。
それは主に科学者によってなされました。なぜなら、その説が科学的に
正しいと言えるものでは無かったからです。

ということで、まずニセ科学批判というものは、個別の説に対する
反論という形で生じました。

このような反論は、科学的に疑わしい説が提起されるとともに生じていきます。
そしてそのような批判つきの疑わしい説が増えてゆき、一定数に達したとき、
世の中にはこんなにも多くの疑わしい説が存在しているということに
人々が気付き、それらを一部的にまとめて呼称する、あるいは総称する
ための言葉として、疑似科学とかニセ科学というものが誕生しました。

ある程度そのような疑わしい説の主張者側と批判者側が議論を
戦わせていくうちに、疑わしい説に共通するような特徴が明らかになりました。

それは例えばapj氏と菊池氏によるニセ科学の定義という形で明示されることに
なります。つまり、

(1)科学を装う
(2)科学でない
の2つを同時に満たすもの

というものです。

しかしここで注意したいのは、主に現在行われている批判というのは、
ある個別の説に対する反論という形で行われており、ニセ科学一般に関する
批判という形にはなっていないということです。
これは例えば、apj氏の場合(参照)、

私は、確かにニセ科学批判にカテゴライズされる活動をしてきた。しかし、その中身は「水クラスターの話は間違いでNMRでは測れない」「マイナスイオン水と呼ばずに電解質の組成と量を調べるべき」「トルマリンによる水質改善の話は変だ」といった、個別の主張の集まりである。
と仰るように、まず批判は個別の説に対するものとしてあるわけです。

もちろん批判する側は、批判の対象を明らかにしなければ批判が
空振りとなってしまう危険が存在するため注意が必要です。
そして、反論は個別の説へと向かいました。

つまり現在存在しているニセ科学批判というのは、
ニセ科学一般に対する批判ではなく、個別の説への批判な訳です。
しかしニセ科学批判という言葉だけを考えると、ニセ科学全般を批判している
ような印象を与えてしまうのも否めません。それはミスリーディングを生じます。

そのミスリーディングの結果として、そうしたニセ科学全般を批判している
批判者に対する批判が生み出されたということです。
そしてこれがニセ科学批判批判というものなのでしょう。

僕自身この言葉自体、混乱を招く表現だし、
こうした言葉の言い回しがされているのは問題だと思うのですが、
少なくともそうした状況が存在しているということです。

また、個別の説に対する批判に対する反論は存在しますが、
それをニセ科学批判批判などとは言いません。
そのような言葉遣い自体が不毛です。
そのため、ニセ科学批判批判という言葉は、ニセ科学一般に対する批判という
存在しない論者に対する批判という、論敵が明らかでない議論になったため、
有意義な議論にならなかったという話なのでしょう。

つまり立場を整理すると、
ニセ科学批判者とは、個別の説に対する反論を科学的な観点から
繰り広げる論者であり、
ニセ科学批判批判者とは、ニセ科学一般に対する批判に対する反論を展開する
論者であるということです。すなわち両者は同じ視点で議論を行っていないのです。

上記のような状況が現在までに存在するニセ科学批判とニセ科学批判批判という
構造の根本的な問題なのではないでしょうか。
そのようなことを今回の議論で感じました。


ニセ科学批判の動機
この話は一応ここまでにして、
ではニセ科学批判(ここでは一般的なニセ科学に対する批判ではない)が
起こる理由を考えたいと思います。僕は大きく分けて二つあるのではないかと
考えています。

一つは真実を追究する姿勢です。
これは分かりやすくいえば嘘や誤解が世の中に蔓延することに対する嫌悪、
あるいは危機感ということですね。

それに対して、それは実は正しくないんだよと警鐘を鳴らそうとした
人たちがニセ科学批判の先頭にいる気がします。
そしてそれは多くは科学的な知識を持った科学者であることが多いのでは
ないでしょうか。なぜならある一定の分野において一般人よりも知識的に
優れているからです。

ここでは、主に定義の(2)が問題とされます。
そしてその領域では科学者が十分な役割を果たすことが出来るような
気がします。


もう一つは利害についてです。
それは、科学的な根拠が無い、つまり科学でない<ニセ科学の定義の(2)>
ものが、科学を装う<定義の(1)>ことによって、それを人々が信じてしまい、
結果的に人々が損をしてしまう現状があることから生じています。

これは科学的かそうでないかに関わらず、偽装という意味で、人々が損をする
という意味でもあります。
ある効果を謳っているのにも関わらず実はその効果が無い商品を、
消費者がその効果があると信じて購入することによって生じる損がある訳です。

これについてはどちらかというと、科学であるかそうでないかという
議論よりも、偽装なのかそうでないのかという(1)の定義が問題とされる
のではないでしょうか。

もちろんそれ以前に利害の観点でニセ科学を扱うのであれば、
批判されるべき説が非科学であると実証されていることが
前提として必要になるでしょう。


こうして考えてみると、現在行われているニセ科学批判
(ニセ科学一般を対象としない)は、主に定義(2)に重点が置かれている
ということになるのではないでしょうか。
科学者のニセ科学批判の立脚点はそこにあるわけです。

ではそこから先の、偽装かどうかという議論はどうなるのかというと、
科学者だけで対応出来る問題ではなく、
むしろ民法や商法などの法律や社会科学的な側面が強く
なってくるような気がします。
その点に関してのみ言えば、どうも。さんの疑問には一理あるなと
思いました。

科学的に正しいのかどうかというよりも、
だまされているのかそうでないのかという方が一般人にとっては
重要な視点なのではないでしょうか。


今回この二つに動機を分けてみましたが、もちろん両者は互いに
オーバーラップするし、あまり有意義な分類では無いのかもしれませんが、
このどちらに批判の立脚点を置くかでニセ科学批判をきちんと整理出来るのでは
ないかと思ったのです。


ニセ科学一般に対する批判
現在のニセ科学批判というのが、個別の説に対しての反論として存在する
と先にも述べましたが、ではニセ科学一般に対する批判というものは
存在しえるのでしょうか。もしそれが存在するとすれば、それに対する批判
としてのニセ科学批判批判もきちんとした論敵を見つけることが出来るのでは
ないでしょうか。

僕はこれはあるだろうと考えています。
しかしそれはメタな話になるのは避けられないと思います。しかし
一般という時点で具体を捨象している訳で、それは問題ではないでしょう。

例えば技術開発者さんの仰るような、「社会のあり方として何かがおかしく
なっているだろう」というような考察というのが考えられると思います。

また、僕が以前に書いた、言説の背後にあるイデオロギー性や、
科学の権威性、あるいは盲信性なんていうのもニセ科学一般に対する
批判として機能すれば幸いだなと思ったりもします。

この次元の議論はまだまだされ尽くされていないのではないでしょうか。

批判と言っても、ニセ科学一般に見られる共通した事象への
警鐘的な意味以上のものではないと思いますが。


本来なら僕がここで書いた内容が既に書かれているか
確認してから書くべきなのでしょうが、時間が取れないのと、
余裕があまり無いので妥協しました。

また、引用部分をしっかりと明示して議論をしなければ
ならないとは思いますが、コメント部分の文章量がかなり多く、
すべてを事細かに検討するのは厳しいので、
今回は参照として扱わせていただきました。dlitさん、どうぞご了承ください。


誤っている認識などがあれば気軽に仰ってください。

posted by Jack at 22:10 | Comment(35) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月16日

科学への信頼とは。 この記事をはてなブックマークに登録

以前、「科学というオブラート」という記事を書きました。

そしてpoohさんにトラックバックをいただき、
エントリで丁寧に僕の記事を併せて論じられていたので(参照)、
返事の意味をこめて、再び記事を書きたいと思います。(記事内のコメントも含め)

ニセ科学に関して

まず最初に明らかにしておきたいのが、僕の立場です。
僕はニセ科学に対して批判的でもないし、ニセ科学批判に対して
否定的でもありません。

これは僕がそもそもニセ科学とは何か、ニセ科学批判とは何かという
部分をしっかりと理解していないというのもあります。
それはご指摘の通りだと思います。

そこで今分かる範囲での僕のニセ科学に関する理解を整理してみようと
思います。

まず「科学的」と言う言葉に関して。
ニセ科学が科学的かどうかということを論じるにあたり、
まず科学的とはどういう意味かが明確でないと、批判が
成り立たないと言うことにもなるので、そこはしっかりと
定義をしなければならないと思います。poohさんは、「科学的」に関し、
科学的、と云うのは「科学の手順を踏んでいる」と云うことで、その手順を踏んでいないものがニセ科学。で、科学は絶対でもないし万能でもない。

と仰っています。

これに従うと、科学の手順とは何かということになります。
それは観察や実験を通して蓄積され、洗練されてきた理論的な
知の総体系とでも言えば良いのでしょうか。

理論は実験や観察によって常に実証、あるいは反証され、
逆に理論の積み重ねによってある事象を予測し、説明することが出来ます。
ある理論群が実際に正しいと仮定すれば、それらを論理的に
結びつけることによって導き出される結論は正しいものだからです。

もちろん理論は後に新しい発見などによって反証されることがあります。
それは我々の認識に限界があるからで、またその認識は技術による
制約も受けると思います。


マイナスイオンについて

また記事中でマイナスイオンを具体例として扱ったのですが、
結果的に誤った認識を持っていたことが明らかになりました。
これは勉強不足だったと反省しています。
十分に理解せずに安易に具体例として使ってしまいました。
そしてこれが安易なニセ科学批判に他なりません。

指摘された内容を含めて改めてマイナスイオンが
ニセ科学であるとするならば、

そもそもマイナスイオンが何を指すのかが(陰イオンであっても、そうでなくても)
明示されておらず、科学的に実証しようが無い

ということになるでしょうか。
こういったものは何であるかが分からないので、反証も不可能です。
実体が無いものの持つ効果を科学的に云々できる訳がないということです。

これについて異論はありません。

また、ニセ科学が理論として存在するのではなく、
実際に実生活の中に入り込んでいるというのが
問題の根本にあるのかな、と今回感じました。
例えば明らかにばかげた理論などというのは
学会でさえも当たり前のように存在するわけで(?)、
それ自体はそこまで問題ではないと思うのです。しかしそれが本当に信用され、
実用的に使われるとそこで初めて問題になるということです。
なぜなら、実際にそれを信じることによって害が生じる
可能性が出てくるからです。

この「実生活」や「身近な」というのがニセ科学を考える上では
欠かせないキーワードなのではないか、と思います。


科学への信頼性

また、前の記事で中立的に書こうと
(というか、漠然とした対象を想像して書いたのがまずかったのですが…。)
あまりにも注意しすぎたため、本来僕が言いたかった主張を
十分に伝えることが出来なかったと反省しています。

僕は今回ニセ科学やそれに関する批判などについて知り、
また考えるにつれて、その背景にある盲信性に目がいきました。

そしてそれはニセ科学だけに留まらず、物事を判断する上で
誰もが突き当たる問題なのではないかとも思いました。
なのである意味これは自らに対する忠告のようなものでも
あったのです。

ではなぜ科学において盲信性があるのかというと、
そこにはまず科学に対しての信頼があるからです。

信頼性がどこから来るのかと言えば、
科学が実験と観察によって裏打ちされ、また、
常に反証可能であり、poohさんの言葉で言えば、
「ビルトインされた誠実さ」と言う事が出来るかもしれません。
科学が信用に足る、と考える理由は、そこに自らを疑いつねによりよいものとして更新していこうとする懐疑が常在しているからだと思う。これを「ビルトインされた誠実さ」と捉えてもいいのではないか。これは必ずしも自然科学だけではなく、社会科学にも、人文科学にも内在されている原理だ。

このことについては確かになるほどなと思いました。

信頼性っていうのはいろんなところから生じると思います。
例えば権威。教授や専門家だと聞けば、この人は信用できる
と思うはずです。これは発言者への信頼性ですね。

また、マスコミなどにも権威があると思います。
例えば新聞に書いてある記事なら信用性が高いと判断します。
(ここでは信頼性=信用性で使い分けに大した意味は無いのでご注意を)
それは誰が書いているかではなく、どこに書かれているかということです。
他にも「エコノミスト」に書かれている記事は信用するとかですね。

また内容に関して言えば、論旨が論理的であることや、
根拠がしっかりしていること(科学的な根拠などです。)が
挙げられると思います。

ということで考え付く限りだと、
(1)誰が、(2)どこで、(3)何を発言したのかで
信頼性が左右されるのではないかと。

この三つは相互に関係したりしているので、区別するのは難しく、
それを一々判断するのは労力がいる作業なので、
ある程度の妥協は必要な気がします。そこらへんは難しいですね。

科学に関してのみ言えば、
「ビルトインされた誠実さ」というのは考える価値がありそうです。
これについては再考したいです。


言説の有用性について

ではあまり一般的なことを考えても仕方が無いので、
科学だけでなく、こういう盲信性というか、
権威への信頼性みたいなものに対応するときにどうしたら
良いのかを考えてみたいと思います。

以前書いたのはその盲信性と相まって、その背後にあるかも
しれないイデオロギーなどに気づかないことが問題だ、ということです。

一つの対応方法としてはpoohさんが仰られているように、
コモンセンスで見極めるということです。
これはリテラシーを磨くということにもつながってくると思います。

そしてもう一つは、僕の考えなのですが、
言説の有用性について考えることです。

その言説を信用することでどのような利益があるのか、
また逆にどんな不利益が生じる可能性があるのか、
ということを考えてみる訳です。

これはその言説の真偽を判断し辛い時に特に
役立つのではないでしょうか。


前回も具体例として地球温暖化を使ったので、
今回も使ってみようと思います。

温暖化の問題は、温暖化があるのかどうかでは既にありません。
そしてその原因としては人為説の可能性が高まりつつあります。
(まだ異論はあるようですが。)
つまり人間の産業活動が地球の温暖化の大きな原因であるということです。

で、ここまでは良いとして、その対応策と言うと、
まだ意見が分かれています。さまざまなセオリーがあるし、
経済成長を抑えてまで温暖化防止対策を行うのか、それとも
経済成長に差し支えない程度で行うべきなのか、などさまざまです。
中には人間に出来る対応策が無いという説まであるようです。

また二酸化炭素などの温室効果ガスの排出を抑えるというのが
温暖化対策の大きな一つの案となっていますが、
この方針についてはむしろ環境云々以前に各国、各産業間の
イデオロギーが強いのかなという印象があります。


もちろん包括的には考えられていませんし、考察に不十分なところは
ありますが、とりあえず有用性について見ていこうと思います。

まず温暖化対策を行う上では、温室効果ガスの排出抑制以外に、
エネルギー効率を高めることや、資源の節約などの方法があると
思います。無駄を無くすのは、経済的にもプラスだし、
コスト減にもなるので、こうした対策を進めることは温暖化以外にも
良い影響を及ぼすと考えられます。
またそれにより技術革新が進むとすれば、それも経済的にプラスでしょう。
温暖化対策が結果的に環境問題全般への対策にもなる、ということも
あるかもしれません。

一方で温暖化対策に関してはマイナス面も考えられます。
具体的にはある国や産業が不利益を被るということです。

例えば京都議定書や温室効果ガス排出の枠組みを決定する際に
問題になるのが、公平性です。

16日付けの産経ニュース【主張】COP13閉幕 日本の「環境力」の出番だ
によると、国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議(COP13)に関し、
今回のバリ合意は、世界中の科学者を結集した「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第4次報告を踏まえた点が重要である。すべての国が、地球温暖化は疑いないとし、対策の必要性で一致したからだ。

 対策の必要性で一致したからには、今後は実行が問われる。その際に大事なのは公平性である。先進国と途上国間、先進国間、途上国でも新興国と後発国の間の公平性などだ。京都議定書では日本が事実上不利になっている。公平性に反するものだ。

と述べています。この公平性について日本は不利だったとの指摘がありますが、
京都議定書での排出削減目標は90年比であったため、
欧州に比べ既にある程度環境への配慮で排出削減が進められていた
日本にとってかなり負担の大きいものだったのです。
また、中国やインドが排出削減義務を負っていないのも
問題視されていますが、温室効果ガスの増加は主に先進国の
発展の過程で排出されたものであり、
それに対して経済発展を抑えてまで協力する必要は無い
という主張を取っています。

さらに公平性の問題に関連して、
温室効果ガス排出削減などを通し、先進国が途上国に対して
イニシアチブと取るというのも考えられるような気がします。
産業に対して介入する口実となるためです。これを中国やインドは
懸念しているのではないでしょうか。

他に、環境問題への対策ばかりに集中し、
アフリカなどで深刻なエイズ問題やその他の今後深刻になるであろう
問題への対策のプライオリティが下がることも懸念されます。


このように言説を直接判断するのが難しい場合、
それを信用し、あるいは採用して行動する際に、
どのような有用性があり、またどのような不利益を生じる可能性が
あるのかを考えてみると良いのかもしれません。

もちろんニセ科学というのは多くは注意して
科学的かどうかを見極めることが出来るとは思いますが。


以上長くなりましたが、
ニセ科学や科学的の定義などに不十分な部分があれば、
コメントなどで教えていただければ幸いです。
posted by Jack at 05:21 | Comment(20) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月14日

慰安婦問題を考える。 この記事をはてなブックマークに登録

まずは13日付けのニュースより。

欧州も慰安婦決議へ 日本政府に公式謝罪要求(産経ニュース)
第二次大戦中の旧日本軍の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に公式謝罪などを求める決議案が12日、欧州連合(EU)の欧州議会(フランス・ストラスブール)本会議に上程された。13日夕にも討議の上、採決を行う予定。同種の決議は7月に米下院、11月にオランダ、カナダ両国の下院で採択されている。

<中略>

決議案は当時の日本政府が慰安婦徴用に関与したと指摘し「20世紀最大の人身売買の1つ」で、人権保障に関する条約などに違反していると非難。日本政府は歴史的、法的な責任を取り、公式に謝罪し、すべての元慰安婦の女性と遺族らに賠償するべきだと求めた。

 また、1993年の河野洋平官房長官(当時)、94年の村山富市首相(同)の談話などに言及した上で「過去数年間、日本の政治家らの一部に政府見解を希薄化、無効化する声がある」と指摘。学校教育でも悲劇を矮小(わいしょう)化する動きがあると批判し、是正を要求している。(共同)

共同通信がニュース元ですが、産経ニュースの方がより詳しいのでそちらから引用しました。

当時の慰安婦の事件に全く関与の無いカナダで決議がされたと思いきや(参照1参照2<英語>)、
今度は欧州会議で決議される可能性が出てきました。これについて嘆いても
仕方の無いことなのでではどうしてこのような状況になってしまったのかを
見ていくことにしましょう。

最初に今年七月の下旬、アメリカの下院で慰安婦決議案が採択されました。
慰安婦決議案採択 米下院(7月31日イザニュースより。)
米下院は30日の本会議で、慰安婦問題に関する対日非難決議案を採択した。決議に法的拘束力はないが、日本政府に公式謝罪を求めている。

<中略>

慰安婦問題をめぐっては、安倍晋三首相が4月末に訪米した際、ペロシ議長ら議会指導者との会談で、「人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれたことに申し訳ない思いだ」と語った。
 ブッシュ大統領は首脳会談後の共同記者会見で、「首相の謝罪を受け入れる」と首相の対応に理解を示しており、日米政府間では事実上解決済みとなっている。

これをきっかけとしてオランダ、カナダで決議が可決され、
今回欧州議会においてすらも可決されようとしています。

この動きは国内にだけ目を向けているとなかなか気づかないのですが、
国外の流れは非常に日本にとって悪いものとなっています。

そこで、どうしてこのような現状になってしまったのかを
国内と国外とのズレという側面から考えてみようと思います。


慰安婦という言葉について

ではまず慰安婦という言葉なのですが、Wikipediaによると(参考程度)、
慰安婦(いあんふ)とは日中戦争や太平洋戦争当時に、 慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍の軍人の性行為の相手になった婦女の総称である。戦後、人により従軍慰安婦とも呼ばれる。制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については、慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張もあり、旧日本軍のケースでは慰安婦を強制連行したのか否か、強制的なものであったか等の点に疑問が呈されており、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐって、今日まで、政治的・社会的に大きな議論を呼ぶ問題となっている。

ということです。

英語ではComfort Womanなどと訳される場合が多いです。
しかし時にはSex Slave(性奴隷)などと呼ばれています。
この言葉の問題は結構重要だと思うのですが、あまり慰安婦に関して知識の無い人が
Sex Slaveと聞けば誤解を招く表現です。


では議論されている項目についてですが、慰安婦は強制であったか、
そして、どれくらいの数の慰安婦がいたのか
この二つについて考えることが必要だと思います。


強制の有無

強制があったのかどうかが議論の大きな争点となっているのですが、
僕は少なくともある程度の強制はあったのではないかと思っています。
しかしそれは当時の状況などを考えれば別に異状では無かったはずです。
(というよりも戦時下というのがすでに異常な状況であった訳で。)

しかしでは軍による命令があったとするような文書などの証拠は
見つかっていないようなので(あったとしても残されないでしょう)、
あとは慰安婦や元兵士の証言に基づいて考えるしかありません。

1993年に河野洋平内閣官房長官(当時)が俗に「河野談話」と呼ばれる
慰安婦についての調査発表を行い、軍による強制性を認めました。
そして同年、村山富市首相(当時)が同様に謝罪しました。

また、狭義の強制性と広義の強制性という言葉の使い分けが
この論争の間で生じたのですが、これはあまり海外へは伝わらなかったようです。

強制性についての安倍元首相の対応

米下院でこの問題が取り上げられた時に、安倍元首相は狭義での強制性を否定する
などの言説を取りました。ここらへんは詳しく分からないのですが、
決議案に否定的だった安倍元首相は証拠が無い面を強調していましたが、
それが海外大手新聞紙によって強制が無い(つまり広義、狭義に関係なくNOである)
というように報じられ、国外の反発を強めることになってしまったようです。
(これについては、
[政治]従軍慰安婦問題:「狭義の強制性」表現を乱用して国際的誤解を生じるミスを犯している安倍政権
が詳しいので参考にさせていただきました。)

また、これは古森義久氏の記事(参照)でも、
安倍氏は従来、慰安婦問題に対してはわりに強い姿勢をとっていた。日本の非を事実調査の徹底を待たずにあっさりと認めて謝ってしまった「河野談話」には批判的だった。米国議会で慰安婦に関連して日本に謝罪を求める決議案が出されてすぐの今年春、当時の安倍首相は、いわゆる「狭義の強制性」を否定した。その否定が「日本軍の関与までを否定した」という米国大手紙などの虚報となって米側に伝わり、議会などでの反発を強めた。

のように端的にまとめられている通りです。

そしてワシントンポスト(3月23日)には、"Shinzo Abe's Double Talk"として批判されています。
これは二枚舌などと訳されているようですが、直訳すると
わけのわからない言説などという意味です。

この中で安倍晋三首相(当時)が北朝鮮に対しては拉致問題解決を訴えているのに、
自国で起きた慰安婦問題(文章内では数十万人にも及ぶ女性の誘拐、
レイプ、性奴隷化などと書かれています。)
を棚上げにしているとはどういうことだという批判が展開されます。

僕としては、これは拉致が戦後であり、慰安婦は戦時下の問題なので、
それを一緒にして論じている方が「わけのわからない話」だと思うのですが、
これだけに限らず安倍元首相の悪いイメージは加速していきました。
やはり一度河野談話によって謝罪がされているのにもかかわらず
それを覆したように受け取られたのがまずかったようです。
(これについては元外交官の佐藤優氏が外務省の失敗を批判しています。:参照

しかしここでさらにまた問題が起こりました。
先にイザニュースで引用したように4月末の時点で安倍元首相が
「人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれた
ことに申し訳ない思いだ」と述べたのが、外国の新聞では軍による強制を認めた
という報道になりました。これはどうやら誤訳(?)による報道のようです。
(参考:安倍首相「慰安婦への強制性」認めた? 英訳記事は誤報なのか
(さらにインタビューの全文があったので参考までに。)

そしてこの後は米下院、オランダ、カナダで可決され、
最初に出たニュースへと日本の国際的な立場はますます悪化していきました。


慰安婦の総数

被害者の数については多説あり、数千人とするものから、
数十万とするものまであります。

日本では多くても4万人以下とする秦郁彦氏の説や8万から20万人とする
吉見義明氏の説などが主だそうです(Wikipediaを参照しましたので参考程度に。)

しかし海外では主に数十万とする説と、20万とする説の二つで
固まっているようです。これは慰安婦問題に対して批判的な側からすれば
多い数を主張するのが当然なのかもしれません。
先に参照2で挙げたAFPニュースでは、
Opposition New Democrat MP Olivia Chow, who spearheaded the initiative, told AFP: "For me, this isn't crimes against 200,000 women. It's crimes against humanity and all of the world's citizens have a responsibility to speak out against it."(この決議案を先頭立って進めてきた野党・新民主党のオリビア=チャウ議員は、「私にとってこれは20万人の女性に対する犯罪ではなく、人道に対する罪です。世界中の市民はこれを非難する義務があるでしょう。」)

と言う風に使われていますし、先のワシントンポストでは、
数十万人というのが持ち出されています。

また、20万人というのは国連人権委員会に提出されたマクドゥーガル報告書
に記載されているようなので、これが国際的な根拠となっているのかもしれません。
(再びWikipediaを参照いたしました。)
しかし日本国内ですら総数で意見が分かれているのにもかかわらず
このように一方的な解釈がされているのは問題です。


このようなズレがどのように起こってしまったのかについてですが、
個人的にはまず日本人の議論(論文など)が英訳されることが少なく、
国外へ十分に議論内容が知られていないことがあり、
それと相まって北米の中国系が世論形成の主導権を握ったこと
があるのではないかと考えています。
中国系によるロビー活動はカナダ、米両国で見え隠れしています。

また、慰安婦問題を現在の視点から見て女性の人権侵害だと
主張する考えが登場し、アムネスティインターナショナルや
日弁連などのいわゆる人権団体が補償を求めている動きもあるのでは
ないでしょうか。

欧州の最近の人権問題への関心もあるのでしょう。
死刑問題に関して、EU内では廃止、あるいは実施しないという
流れになっています。


では海外での日本における慰安婦問題に関する考えを整理しましょう。

・日本における慰安婦問題は軍の強制である。
・人権上極めて罪の重い行いであった(被害者数の多さも加味しているはずです)。
・日本の謝罪は十分では無い(これは安倍元首相の件も関わってくると思いますが)。
・被害者への賠償をすべきだ。
・教育においても慰安婦をしっかりと認識する必要がある。(一部の主張でしょう。)

ということになります。


現状を踏まえた上での日本の今後のあり方とは

ここまで書いてみて、ではこれからどうすれば良いのか
ということですが、こうなってしまった以上、日本が反発すればするほど
世界の反感を買ってしまうことになりそうです。
今の世界における日本の慰安婦問題の認識がこのように形成されて
しまった以上、河野談話を撤回する訳にもいかないでしょう。
謝罪に関して言えば、しっかりと筋を通し、その上で
慰安婦における日本の認識を主張していく必要があります。


補償について、僕はよく分かりません。

しかし日本が補償をしてこなかったかというとそうではありません。
本来的な戦争における日本の行為に対する国家間の戦争賠償と補償は、
終了しています。(サンフランシスコ条約と個々の二国間条約により。)
また、慰安婦についてもアジア女性基金が補償を行ってきました。
(※2007年3月に解散)

また、今の人権意識の中で
戦時下という特殊な状況における日本軍の行いを扱うのはどうなのか
という疑問も残ります。
そして、もしこれを法的に裁くとなると(民事訴訟になるのでしょうか)
人道に対する罪などは事後法(戦後に作られた法)ですから、
戦時中の行いにまで遡って裁くというのはおかしい(法の不遡及である)
のではないかとも思います。


また、中国と韓国に関してはそれぞれ、
自国の個人による賠償請求権を放棄しています。
中国は1972年の日中共同宣言によって(参照)、
そして韓国は1965年の日韓基本条約と共に定められた諸協定のうち、
日韓請求権並びに経済協力協定によって(参照)定められています。
(中国の場合は個人補償までは明記していないので微妙ですが、
すでに中国人による個人補償請求が裁判で否決されたことがあります。)

もちろん国や機関が自発的に賠償することは可能なのでしょうが、
戦時中のことについては一応の決着を見ているので、
それはしっかりと認識しておく必要があるでしょう。

個人の賠償ははっきり言えばきりがありません。

しかし慰安婦が今も生存していることには変わりませんし、
彼女らに対する謝罪の気持ちを忘れてはならないし、
その存在を否定するべきではありません。


これを踏まえてしっかりとした外交を築いていかなければ、
これからもいつまで経っても日本は謝っていないと言われて
しまうし、非難の声は止みません。もちろんロビー活動などに
対してもきちんとした対応をする必要があるでしょう。
あまりにも日本は海外に対するメッセージ発信を怠ってきたように
思います。あるいはそうした意識が希薄だったのではないでしょうか。

僕は人権団体の動きについては今までは肯定的でしたが、
今回のように国家の利益(今回は国のイメージ、心象)と反する場合
(あるいは片方を立てればもう片方が立たないというトレードオフの関係)
もあるかと思うと複雑な気持ちでした。これについては中々難しいです。


以上長くなりましたが(おそらく今までで一番長い文章でしょう。)
事実誤認などがあれば指摘お願いします。コメントもお待ちしています。

2007年12月14日ノルウェーにて記。


追記:ここでは直接触れませんでしたが、
池田信夫氏が自身のブログで扱われている慰安婦問題について
読んだことが、この問題について考えるひとつのきっかけとなっています。

また、Wikipediaをあまり使いたくないと考えていますが、
新聞などや書籍にあたることが出来ないので、参考として
使いました。
posted by Jack at 12:41 | Comment(0) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

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