2008年05月01日

社会人類学の授業に出てみた この記事をはてなブックマークに登録

たまには勉強の報告でも。

現在授業を二つ取ってるんですが(EU論とスカンジナビアの福祉論)
友達が社会人類学の授業を取っていて、興味があったので月曜の
授業に忍び込み参加しました。

少人数授業では無いため、簡単に忍び込めます。
出席を取らないし、出席点(成績に関係する)が無いからです。

その授業では人類学の研究の上で出てくる重要な学者を
追っていくものです。人類学史とでも言えば良いのでしょうか。

最初の数回分の講義は出て無いので内容は分かりませんが、
扱った学者は、デュルケム(Durkheim)、ラドクリフ=ブラウン
(Radcliffe-Brown)、マリノーウスキー(Malinowski)、
そしてレヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)など。

デュルケムとレヴィ=ストロースは有名だと思います。
前者は社会学で多大な功績を残したし、
後者は構造主義を唱え、人類学に大きな影響を与えました。

ただ、どちらも論文を読んだりしっかり勉強したわけでは
ないので、紹介に留めておきます。


その授業では続きでメアリー=ダグラス(Mary Douglas)の話。

有名な著作に、『汚穢と禁忌』(Purity and Danger)があります。
今回は理論の説明だけだったんですが、ざっと説明します。
(はっきり言って正確性を保証出来ないのであしからず。)


社会の秩序は、象徴、コンセプト、認識によって構築されていると考え、
その秩序が崩されることを「汚い」と捉える。

汚い=無秩序、混沌という構図です。

「汚い」と言っても、字義通りの汚さというものでは無く、
心理的に感じる汚さのことなので、注意が必要です。
日本語で言うと、穢れ(けがれ)なのでしょう。

また別の観点で考えると、清潔かそうでないかというのは、
衛生学や科学が発展し、微生物などの働きが解明されてからなので、
そうした以前の段階ではより精神的に汚いかどうかというのが
重要だったとも考えられるかもしれません。

例えば、部屋が汚いというのは、整頓された部屋と対置される状態です。

秩序=きれいということなのですが、秩序というのは、
言葉などで物事をカテゴリー分けする過程で構成されます。
なので、ある二つのカテゴリーが接していて(境界の存在)、
その接点にある存在、つまりどちらにも属さない、
あるいはどちらにも属するような曖昧な存在は、
汚いもの、穢れたものだと認識される。

血縁などもこの考えが適用できます。
例えば純潔と混血という考え方がありますが、
混血=穢れた血という構図は未だに残っていると思います。

混血と言うわけでは無いので良い例では無いかもしれませんが、
ハリー・ポッターでもハーマイオニーがマグル(普通の人間)の親を持つ
魔女であることから穢れた血などと呼ばれて軽蔑されたのも、
こうした考えに近いでしょう。

聖なるものという概念もあったのですが、
はっきり言ってこれは良く理解できなかったので説明できませんが、
自分の秩序世界(境界に囲まれている)の外部に存在するもので、
しかも自らの境界を脅かすもので無いものが、神聖なものとして
考えられるというような話だったような。


他にもジョークを象徴人類学的な考えから分析したりしているみたいです。
それについては論文があったので時間があれば読んで見たいと思います。

明日はヴィクター=ターナーという人について。
段々回を追うごとに説が発展していく流れになっているみたいです。
彼はある共同体(あるいは時間的に区切られた状態)から
別の共同体へ移る段階についての考察をしているみたいです。


追記:人類学を勉強されている方で、これは違うぞというのがあれば、
ご指摘ください。よろしくお願いします。
posted by Jack at 06:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大学・学問 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年02月13日

子供をロボットが世話する時代は来るのか? この記事をはてなブックマークに登録

以前紹介した

Scandinavian Welfare Model and Gender Relations;
スカンディナビアの福祉モデルとジェンダーの関係

授業では今回から担当の新しい先生で、
彼女の専門である、「介護」(care)について扱いました。

介護といってもかなり幅広い定義で、
ある人が他者(多くの場合は援助を必要としている)に対して
差し伸べる助けのことです。

具体的に扱うのは、主に他者の援助が無しに自立的生活が行えない者
に対する介護であり、障害者、高齢者、乳幼児が対象です。

講義の内容を追うのも良いのですが、
今回は面白かった部分について書いていこうと思います。


従来、多くの社会で介護は女性が行うものでした。

介護は大変負担のある仕事ですが、無償で妻が行ったり、
安い賃金で女性が行ってきたのです。

そこには男女間での分業が存在し、
女性の賃金は男性のそれよりも相対的に低い状況でした。
例えば医者は男性の仕事で、看護師は女性の仕事というようにです。
これは今も変わりませんし、従来使われてきた看護婦という言葉が
明示する通りです。

市場にとって女性は男性よりも安価な労働力だった訳です。

しかし女性の社会進出が進められると、男女間の賃金差が
縮小します。これが特に進んでいるのが北欧諸国なんですね。

では介護に対する報酬はどうか。

未だに低水準のままなのです。
重労働低報酬下で働きたい人は少ないですよね。

その為介護に従事する労働者が減るんです。これは日本でも
同じような現象が起きていると思います。

でも高齢者は増えるばかりだから、介護に従事する労働者が
更に必要となる。どうするのか。

海外から労働者を引っ張ってくるんです。

経済的に未発達な国から先進国に出稼ぎに来るように、
彼らにとって、例えばノルウェーにおける低賃金は十分な
収入になる訳です。だから割の合わない仕事でも引き受けてくれるのです。

従来介護の領域で働いてきたのが女性だったわけですが、
先生はこれを第一世代と言い、海外労働者達のことを第二世代と
呼びました。

日本の場合だと、フィリピンから介護などに従事する労働者を
受け入れるような議論がされていた気がします。
北欧では主に中東やアフリカ系が多いようです。

だから今現在は第一世代から第二世代へと移行しつつ
あるんですね。多くの国で。


では更に考えて次の世代はどうなるんだろうという疑問が。

先生はロボットかもしれない、

と言っていました。高齢者の介護なんかで、ロボットが
話しかけたりするような光景をイメージしてごらん、
と冗談で言ってたんですけど、ノルウェーでは
どうやらそういう議論もあるみたいですね。

例えばこれのこと言ってるのかなと思ったり。
ノルウェーは今後5〜10年のうちに、医療福祉関連の人員不足が深刻化する見通し。2020年には第二次世界大戦後に生まれた「ベビーブーマー」世代の大量退職で危機的状況を迎える。

 こうした中、高齢者介護の助けとなるロボットなどのハイテク装置開発を目指し、2つの労働者団体が手を組んだ。

 「テクノロジーは今後も、医療分野で労働者が抱える問題の一部解決に貢献するだろう。さらに、自宅で長生きする手助けもしてくれるかもしれない」。ノルウェーの自治体代表グループの責任者、オラフ・ウレレン氏はこう話す。(高齢者介護のヘルパーロボット、ノルウェーで開発へ:参照


高齢者介護を担う労働力として機械を導入しようと。
人間よりもはるかに低コストです。
(機械の導入にかなりのコストがかかるので単純に比較は出来ませんが)。

もちろんばかげてるとか、高齢者を機械に任せるなんてけしからん!
という反論が来ると思いますが、これに対しては、
ウレレン氏によると、新技術の目的は、人的介護と優しさの代替を提供することではなく、介護者を増やせない状況で、追加的な支援を提供することだという。

 「誰でもできるだけ長い間、自分の面倒は自分で見たいものだ。目的は、高齢者介護の責任を取り除くことではない。ただもう1つ新たな次元が加わるにすぎない」と同氏は言い、家事にハイテク機器を使えば、人による介護にもっと心がこめられるだろうと説明した。(引用元同上)

という説明がなされています。

現実的な話をすると、このロボットというのも日本人がイメージしやすい
ドラえもんのような人型ロボット(猫型ロボットだっけ 笑)
ではなく、より今の家電に近いものだと思います。

掃除機でも勝手に動いて掃除するやつとか既に出てますからね。
そういった介護に必要なある一つのタスクをロボットで代替する、
あるいは被介護者の自立を促す手助けをする、
というのがこの記事の話なのでしょう。

少し調べてみると、手を自由に動かせない人のための食事補助
のような機械(参照)が既に実用化されているようです。


では育児(child care)はどうでしょうか。
高齢者の介護が家庭内で行われることが少なくなってきている今、
育児が家族内での介護の最後の砦なわけです。

育児も介護と同様に母親が中心的な役割を
担ってきたことには変わりはありません。

もし高齢者など育児以外の介護の場合のように、
女性(乳母を含む)⇒海外労働者のような流れがあるとしたら、
ロボットが育児に従事するようになる可能性もあるのかもしれません・・・。


個人的にはあまり想像したくありませんね。
やはり育児は家庭で行うのが理想でしょう。


育児はどうあるべきかというような問いにもつながって
来るでしょうが、福祉社会では育児をどのように捉えるのか、
それをもう少し詳しく考えたいです。




posted by Jack at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大学・学問 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年01月30日

続・北欧の福祉政策とジェンダー この記事をはてなブックマークに登録

では前回に続いて、「北欧の福祉社会とジェンダー」
について考えていきたいと思います。


この前のエントリで、
これは友人から聞いた話なのですが、
ノルウェー人の男性は海外から女性を連れてきて結婚する人が
多いということです。(そして逆は聞いたことがありません。)

と書きました。

それで、その答えを政府による、育児などへの
手厚い保護などによって女性が一人でも働きながら
子供を育てられるようになったために、
男性の稼ぎ手(英語ではbreadwinnerと言います)としての
役割が薄くなったのが原因じゃないのかと思っていたわけです。
そしてだから男性がしたくても結婚できずにいると考えました。


しかし、授業で一緒になったノルウェー人の女性
(学生なんですが結婚しているそうです!)に聞いてみたところ
どうやら別の理由があったようです。

彼女が言うには、男性が結婚出来ないのではなく、
逆に男性がノルウェーの女性では無く他の国の女性と
結婚したいという事情があるそうです。


それはなんでしょうか。


女性が働けるようになると、共働きの家庭が増えました。
しかし女性も働くとなると、家庭では女性が家事や
育児をしつつ働くというのは負担が多すぎるため、
男性も家事や育児を分担する必要が出てきます。
なぜなら家庭における大きな役割が稼ぎ手(breadwinner)
と家事などのハウスワークの二つだからです。
女性が稼ぎ手の役割を担うなら、男性も家事などの
家庭内でも協力するのが当然だと考えられます。
もちろんそのバランスは他人が判断するべきではなく、
当人同士が話し合った上で納得した役割分担が出来ることが
理想だと僕は思います。


北欧では女性の働く機会が増えたのと同時に、
働きたい女性が増えました。こうして女性が働ける状況が
しっかり整ってくると、男性だって家事を分担することが
よりいっそう求められてきます。
中にはすんなり家事を手伝って互いに満足した夫婦生活を
送れる男性もいますが、断固として家事はしたくない、
あるいは家事が出来ないという男性も少なくありません。


あとはもう簡単ですね。


そういう男性は家事をしてくれる女性と結婚したい訳です。
北欧はかなり生活水準が高く、
(国民一人あたりのGDP[GDP per capita]はトップクラスです。)
男性が働き、女性が家事をするという分担でも
十分養っていける状況があるというのもあるのでしょう。
しかし国内の女性は働きたいと思っているし、
家事だけをやりたくない訳ですね。そしたらもう海外から
家事をしてくれる女性を連れてくるしかない!(笑)

ということです。海外に目を向ければ、
まだまだ女性は家庭の中の仕事をやるという位置づけが強く、
北欧ほど女性の社会進出が進んでいない国が多いのもありますね。


もちろん実際にはもっと複雑な事情があるだろうし、
友達から聞いた話なのでこういう話があるのか程度に
受け止めてください。


閑話休題。

でもここで思うのは、男性の妥協も必要なのではないか
ということです。やはりシングルマザーが多いというのは、
母親自身の負担も大きいし、
夫婦で協力(この協力というのが大事!)して育児をする
というのがやはり理想なのではないでしょうか。
男性もこれからは家事が出来るかどうかというのが
結婚を考える上で重要になってくるのかもしれません。


もちろん勘違いしてほしくないのは、男性と女性が仕事を共にし、
共に家事をするというのが理想だと言ってるわけでもないし、
平等であるということでもないことです。
それは夫婦が対話を通じて納得したバランスの分担を
するべきであって、他が決めるものではないでしょう。
お互いに平等だと思えればそれが一番ですから。


じゃあ国家が福祉政策としてどこまで家庭を
サポートしていくのか。これは重要な問題です。
今後考えていく必要があるものです。現時点でのみ言えば、
やはり女性が社会進出するような状況は国が積極的に
整備するべきですが、家庭内における役割分担という部分は
「私」の問題として国があまり関与しない方がいいのかな
というのが率直な印象です。その意味では北欧の政策は
ある部分で行き過ぎてしまっているように感じます。
そしてそれが、前に話したようなノルウェー人男性が
外国人女性と結婚することが多いというところに
結び付けようとした動機だったのかもしれないと
今になって思います。

シングルマザーが多いというのは育児の面から見ると
やっぱりあまり好ましい状況ではないのは
きっと誰もが思っているはずです。家族というのは
構成員が互いに経済的に、あるいは文化・社会的に支えあって
維持していく一つの共同体です。というより「共同体の最小単位」
ではないでしょうか。そして家族の役割には子孫を教育し、
社会人にすることがあるはずです。


だとすれば男女平等というのはもちろん大事ですが、
それを達成するために家族の機能が失われるというのは
あってはならないし、そうならないように注意する必要がある
と言えるのではないでしょうか。


しかし最近では家族のあり方も大きく変化しています。
どのような方向へ向かっているかというと、
核家族化が進んでいるのです。これについてはこれが
良いことなのか悪いことなのか判断が出来ませんが、
考えるためには家族がどういうものであるのかというのを
まず知らなければなりません。
そのアプローチには社会学や文化人類学が使えると考えています。

みなさんもこれを機に、家族、家庭のあり方ってどんなだろう、
あるいは家庭における夫と妻の役割分担はどうだろう
なんてことを是非考えてみてください!


この次はもっと講義に即して、女性の社会進出は具体的に
どうなっているのか、あるいは国の福祉政策の違いを
規模によってタイプ分けしたりすることなんかを扱おうと思います。



※COURRiER+hitomediaのブログ(参照)の方に掲載させていただいている文章を転載、一部このブログのために改変しています。どうぞご了承ください。
posted by Jack at 05:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大学・学問 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2008年01月25日

北欧の福祉社会とジェンダー この記事をはてなブックマークに登録

今週から授業も始まり春学期スタートです!
正確には先週から始まっているのですが、日本へ一時帰国していたので
今週から授業に参加です(笑)

今のところあったのが、
The Scandinavian Welfare Model and Gender Relations
という長い科目名の授業なんですが、講義とセミナーが一回ずつありました。

スカンディナビアと言うと、北欧五カ国を指し、具体的には
ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイスランドとなります。

北欧と言えば、女性の社会進出がかなり進んでおり、
また国家が手厚い福祉政策を行っているイメージがありますよね。
それと同時に消費税も高いわけなんですが。


この授業では、スカンディナビア諸国を中心としたヨーロッパ各国の
福祉政策の比較と、ジェンダーと福祉政策の関連性を考えるようです。

今回は授業にはあまり触れずに、
気になっていることを書いてみようと思います。

授業内容については今後授業が進行するのと平行して書いていくのも
面白いかなと思うので、興味がある方は気軽に仰ってください。
疑問や意見なども、どしどしお待ちしています!

ジェンダーという言葉は日本でもかなり広く使われているものなので
今更説明する必要は無いかもしれませんが、
簡単に定義すると、
生物学的な性とは別に文化、社会によって形成された性であり、
男性らしさ、あるいは女性らしさという言葉などで表されるような
概念を具体的には指します。

フェミニズム運動などと共にこのジェンダーという言葉が
頻繁に使われるようになり、また、社会における男女平等が
訴えられるようになりました。

そして先にも言ったように、
北欧諸国は世界でも女性の社会進出が最も進んでいる国々に
挙げられるでしょう。

例えばノルウェー王国大使館のホームページによると、
公共部門では女性が全従業員の68%を占めています。その多くは地方自治体で、そこでは78%が女性です。政府機関についても女性の比率が57%と、過半数以上を占めています。民間部門では、男性が圧倒的に多くなっています(2004年)。

とあり、まだ完全とは言えませんがかなり多くの女性が働いています。
そして北欧と言っても国ごとにその状況は異なってきます。

また、女性が社会へと進出する上で重要となってくるのが
育児サポートなどの女性が働ける環境の整備です。
そこを国が福祉政策としてどこまで出来るかというわけですね。

ここでジェンダーと福祉政策がリンクしてくることになります。


しかし僕が気になっているのは家庭についてです。
これは友人から聞いた話なのですが、
ノルウェー人の男性は海外から女性を連れてきて結婚する人が
多いということです。(そして逆は聞いたことがありません。)

なんでだろうと思ったときに一つ考えたのが、
かなり女性が社会的に自立出来ており、
また育児ケアを含めた生活保護なども充実しているので、
男性がいなくても(稼ぎ手がいなくても)シングルマザーとして
やっていけるのではないかということでした。

これはノルウェー人の男性には申し訳ないのですが、
そういう考えが浮かんだんです。

(余談ですが大学へ通うためにバスに乗ることが多いんですが、
ベビーカーでこどもを連れている乗客をかなり頻繁に見かけます。
バス車内の真ん中に広いスペースがあるため、
そこにベビーカーが2台くらいは乗れます。)

もちろんこの考えには背景として家族の役割という概念があるので
そこを説明しなければなりません。

最小単位として、夫婦から構成される家庭を考えるとき、
家庭を維持するためにしなければならない役割が二つあります。
それはお金を稼いで家計を維持する役割と、家事洗濯などをする役割
の二つです。

従来、この役割は前者を男性が、そして後者は女性が担うものでした。
そして変化しつつありますが、現在もこの分担が多くの文化、社会で
行われています。

福祉政策にもどこまで保障するのかという程度の違いはあります。
それは職を失っている者や高齢者、生活に貧窮している家庭の
生活保護までであったり、さらに手厚く育児をしている
家庭への保護まで行うことも出来ます。

このように考えると、
国の手厚い保障が家庭内の生活保護まで行くと、
家庭内における稼ぎ手の役割が薄くなってしまうのではないか
という疑問が生じてきます。

つまり従来稼ぎ手であった男性の家庭内における役割が薄くなる
ということですよね。
だからそれがノルウェー人男性がノルウェー人女性と結婚出来ない
理由なのかなと思ったわけです。

ということで、日本の福祉を考える上でも北欧の福祉モデルは興味深いし、
また一男性としても気になることではあるので(笑)、
上のような問題意識を持ってこれからも授業に望んでいきたいな
と思います。


さて、実はさきほどの問いを同じ授業を取っていたノルウェー人女性にも
セミナーの際に聞いてみましたが、別の理由があるようです。

それについてはまた次回ということで。


(※ この文章と同内容のものをこの度開始したCOURRiER Japon + hitomediaの政治を語るブログ【参照】にも載せています。今後同様のことを行うことがありますので、どうぞご了承ください。
posted by Jack at 00:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大学・学問 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年11月30日

文化人類学という学問 この記事をはてなブックマークに登録

大学で半年間文化人類学の授業を
取ったことがあります。
プレゼンを毎週のようにやらされて
すごく大変だったのですが、同時に
考えさせられるテーマがいくつもあり、
とても充実した授業だったと思います。

文化人類学でどのようなことをやるのかを
ちょっと説明する機会があって、
せっかくなので勉強したことを少しだけ書いてみます。
出来るだけ分かりやすく書くように頑張りたいと思います。


<文化人類学の学問的な位置>

まず文化人類学の位置づけについてですが、
人類学
の一つの分野で、また、社会人類学と呼ばれることもあります。
日本では民族学、あるいは民俗学という呼び名の方が
一般的かもしれません。(※1)

人類学は一般に大きく四つの分野に分けられ、
自然人類学形質人類学)、考古学言語学文化人類学
となっています。

自然人類学は、進化論や霊長類の研究などを考えれば
人類と関わってくるし、考古学はエジプトの遺跡発掘などや
有史以前の研究、言語学では人類を知る上では欠かすことが出来ない言葉、

そして最後にこれから紹介する文化人類学が人間の築き上げてきた文化を
研究対象とするわけです。

一言で文化人類学がどのような学問かを説明するのは
とても難しいのですが、基本的に人間の文化や社会を総合的に

研究する学問です(そのまんまですね 笑)


<文化人類学の研究手法>

授業の前半に勉強したのが、
文化人類学者の研究の手法のようなものです。
もちろん基本的に文化を研究するわけですが、
研究方法としては大きく二つあります。

一つは民族誌、あるいは民族誌学と呼ばれます。
これは主に、フィールドワーク、つまり実地に研究者が赴いて
ある特定の文化を観察して、それを民族誌という記録にする方法です。

一つの文化を研究するとしたら、テレビやその文化に関する本を
読むよりも実際に現地に行ったほうがより価値のある研究が出来る
訳です。「百聞は一見に如かず」と言いますがまさにそのとおりです。


もう一つは、民族学です。
はっきり言って言葉的に混乱してしまうと思いますが、
上手い日本語訳が無いので、ひとまずここでは
文化人類学の一部としてこういう方法があるという意味で
この言葉を考えてください(※2)

ではこれは何をするかというと、民族誌を元に
文化比較などをして研究することです。これによって
文化一般に関する理論などを考えていくわけです。ということで
どちらかと言えば科学的なアプローチですね。

以下で僕は民族誌学の方を主に考えたいと思います。
なぜならそちらのほうが興味深いからです。


民族誌学としての文化人類学

文化人類学を考える上で重要なのは、その発展です。
そもそもこの学問が主に西洋文化では無いものを研究対象にしてきた
というのをまず頭に置いておくべきです。

想像して言うなら、大航海時代、植民地時代を経て、
西洋とは明らかに違う文化が明らかになり、
その文化に純粋に興味を持つ学者が出てきたということです。

これは、僕たちがテレビで「世界ウルルン滞在記」を観て、
こんな文化があるのかと、興味をそそられるのと
同じ動機であったと思います。

言葉にして言えば、エキゾチックな文化。

オリエンタリズムというのは、東洋風のとか訳されますが、
これもある意味その流れとして考えられます。
西洋人が東洋の神秘を感じるということですね(笑)

それで実際にその文化を研究するためには
現地へ行って観察・体験するのが早いのですが、
フィールドワークを進める上でそこでいくつかの問題が出てきました。
そしてその問題に対処することで調査手法を発達させてきたわけです。


一番大きな問題としてあったのが、
自民族中心主義、あるいは自文化中心主義です。

西洋人から言わせれば、白人文化が優れているという考えですね。
この学問が発達し始めた段階ではこの研究に関わっていた
学者が多くが白人であり、研究対象が悪く言えば「未成熟な」文化、
「野蛮な」文化と考えたのでした。
これは先ほど言ったように「世界ウルルン滞在記」とかでやってる内容
を観て、生活面では衛生面、あるいは機械類が無いし、技術的に
「劣っている」という風に感じるし、「汚い」とか、「変な」食べ物
を食べていることに驚いたりすることを考えれば分かるでしょう。

また、白人はアフリカや南アメリカなどの「野蛮な」文化を知る過程で、

白色人種が人類の進化の段階の上で最も優れた人種である、
そして黒色人種や黄色人種は劣っており、我々が導いていかなければ
ならない

という考えを発達させました。
更にはそれが植民地侵略の動機の一部になり、皮肉なことに
文化人類学が、この考えに学問的な担保を与えてしまったのでした。

しかし、実際にはそれらの文化自体が劣っているわけではありません。
そして文化に優劣を付けることは争いの原因になることは歴史が
示す通りです。


自らの文化が優れていると考える見方は
なかなか捨てられるものではありません。
自分の暮らしてきた、慣れてきた文化とあまりにも違う、
だからそこで拒否反応が起こったり、冷静に観察が出来ないことが
しばしば起こります。

バイアスのかかった見方をしてしまうのです。

さらに言えば、
もしその文化に否定的であれば、反応として出てしまうものだし、
そこに暮らしている人々もその研究者を受け入れてくれないでしょう。

研究なので出来るだけ客観的に観察し、記録する必要があるのですが、
そういった意味で問題が出てきました。


また、その文化をしっかりと研究し、記録するためには
実際に研究者自身がその文化へと適応する必要があります。
これは簡単に例えば、よその家庭を良く知るためには数日泊まっただけでは
分からないのと一緒で、根本にあるいろいろな価値観や暮らしぶりなどを
「深く」知るためには時間がかかるのです。
そこでもやはり問題が出てきます。

やはり生まれてずっと慣れてきた文化から別の文化へと移り、
その文化を客観的に捉えるというのはなかなか容易なことではありません。

カルチャーショックというのを海外では誰しも経験すると言いますが、
(もちろん僕も軽い程度のカルチャーショックは受けました。)
自分の文化と新たに経験する文化の違いが大きければ大きいほど
その度合いは強いものになるそうです。
生活面だけではなく倫理感や宗教観の相違などいくつもの困難があります。

極端な例だと、さっき言った「世界ウルルン滞在記」で、
ある人がアフリカの僻地に行ったというような場合を想像すれば分かる
のではないでしょうか。食生活は違うし、住み心地が良いわけがありません。


そこでどうすればいいのかということですが、
おそらく出来るだけ自分の文化に囚われないようにする、
そして具体的には多くの文化を経験し、視点を相対化する
以外に無いと思われます。
(これが文化相対主義ですね。)

だから研究者は研究までに他の文化を経験している人が
適しているとも言われています。


また、実際にその社会に溶け込む方法として面白いのが、

研究者は出来るだけ赤ちゃんのように、つまり
何もかもを新しいものとして捉える(=偏見が無い)ことによって
客観的にその文化を研究するという方法です。

あるいは、何でも書き込める白紙のように新しい文化に向かうと
言っても良いでしょうか。

全てを新しいものだと思い、興味を持って質問していくという
態度でもあります。また好意的、興味があるほどその文化にいる
住民の態度も良くなるし、心を開きやすいと思います。


こんな感じのことを授業の前半の方ででやりました。

大分長くなってしまいました。
内容について入れませんでしたね(苦笑)

また機会があれば実際にどんなことを
具体的に勉強したのかを書きたいと思います。



余談ですが、
有名な人類学者として、
『菊と刀』(原題:The Chrysanthemum and the Sword)を記した
アメリカ人のルース・ベネディクトがいます。
彼女は日本の文化を西洋の文化と比較して日本の文化を
明らかにしようと試みました。
しかし、当時の状況もあり実際に日本へと赴くことは出来ず、
内容についても批判が出ています。
それでも名著として読む価値はあると思います。

ちなみに僕はまだ読んでいません(苦笑)
しかし、『武士道』とともに留学中の大学からの指定図書でもあるので
是非読んでみたいと思います。


そういえば、日本の文化ということで思い出したんですが、
サミュエル・ハンチントンが『文明と衝突』という本で
8つないしは7つの文明があるとし、その中で日本を文明の一つとして
あげています。

具体的には
中華文明(儒教的な文明)、日本文明、西欧文明(キリスト教的)、
イスラム文明、ヒンドゥー文明、東方正教会文明(Orthodox)、
ラテンアメリカ文明、アフリカ文明、
そしてそのどれにも属さない文明です。
これを観ると大きくは地政学的な面と宗教分布的な面の
二つが大きく分ける理由となっていますね。


※1、僕のイメージでは、民俗学がどちらかと言えば
研究手法(民族誌やフィールドワーク)もそうですが文化人類学に
近いと思っていたのですが、どうやら民族学が対応するようです。
どちらかと言えば民族学の方が調査法もですが科学的なのかも。

ちなみに民俗学で有名なのは折口信夫(しのぶと読む)や
柳田國男です。

※2、英語では前者がEthnography、後者がEthnologyとなっており、
文化人類学=Cultural Anthropology、民族学=Ethnologyで、
実際には文化人類学と民族学は区別されるべきなのですが、
混用されています。とりあえず民族学は広い意味での文化人類学
の一部分だと考えて欲しいと思います。

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posted by Jack at 07:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | 大学・学問 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

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