2007年12月22日

ニセ科学批判に関する個人的な考察(草稿) この記事をはてなブックマークに登録

[学問][雑記]「いっちょ有効なニセ科学批判批判論でも考えてみるか→すぐに挫折」から考えたこと
という記事を読ませていただき、
そこにあったコメント群の議論についても精読というほどではありませんが、
大まかな話は把握させていただきました。

もやもやしている部分を出来るだけ整理するためにも、
こうして記事を上げて読んだ内容に関して考えてみようと思います。


ニセ科学に関する考察。

ニセ科学批判やニセ科学批判批判というものが現在あり、
それをめぐっていくつもの議論が起こっています。

順序としては、ニセ科学と呼ばれるようなもののなかで、
例えば水に言葉が伝わるというような説があり、それは違うということを
声に出す人が出てきました。それがニセ科学に対する批判です。
それは主に科学者によってなされました。なぜなら、その説が科学的に
正しいと言えるものでは無かったからです。

ということで、まずニセ科学批判というものは、個別の説に対する
反論という形で生じました。

このような反論は、科学的に疑わしい説が提起されるとともに生じていきます。
そしてそのような批判つきの疑わしい説が増えてゆき、一定数に達したとき、
世の中にはこんなにも多くの疑わしい説が存在しているということに
人々が気付き、それらを一部的にまとめて呼称する、あるいは総称する
ための言葉として、疑似科学とかニセ科学というものが誕生しました。

ある程度そのような疑わしい説の主張者側と批判者側が議論を
戦わせていくうちに、疑わしい説に共通するような特徴が明らかになりました。

それは例えばapj氏と菊池氏によるニセ科学の定義という形で明示されることに
なります。つまり、

(1)科学を装う
(2)科学でない
の2つを同時に満たすもの

というものです。

しかしここで注意したいのは、主に現在行われている批判というのは、
ある個別の説に対する反論という形で行われており、ニセ科学一般に関する
批判という形にはなっていないということです。
これは例えば、apj氏の場合(参照)、

私は、確かにニセ科学批判にカテゴライズされる活動をしてきた。しかし、その中身は「水クラスターの話は間違いでNMRでは測れない」「マイナスイオン水と呼ばずに電解質の組成と量を調べるべき」「トルマリンによる水質改善の話は変だ」といった、個別の主張の集まりである。
と仰るように、まず批判は個別の説に対するものとしてあるわけです。

もちろん批判する側は、批判の対象を明らかにしなければ批判が
空振りとなってしまう危険が存在するため注意が必要です。
そして、反論は個別の説へと向かいました。

つまり現在存在しているニセ科学批判というのは、
ニセ科学一般に対する批判ではなく、個別の説への批判な訳です。
しかしニセ科学批判という言葉だけを考えると、ニセ科学全般を批判している
ような印象を与えてしまうのも否めません。それはミスリーディングを生じます。

そのミスリーディングの結果として、そうしたニセ科学全般を批判している
批判者に対する批判が生み出されたということです。
そしてこれがニセ科学批判批判というものなのでしょう。

僕自身この言葉自体、混乱を招く表現だし、
こうした言葉の言い回しがされているのは問題だと思うのですが、
少なくともそうした状況が存在しているということです。

また、個別の説に対する批判に対する反論は存在しますが、
それをニセ科学批判批判などとは言いません。
そのような言葉遣い自体が不毛です。
そのため、ニセ科学批判批判という言葉は、ニセ科学一般に対する批判という
存在しない論者に対する批判という、論敵が明らかでない議論になったため、
有意義な議論にならなかったという話なのでしょう。

つまり立場を整理すると、
ニセ科学批判者とは、個別の説に対する反論を科学的な観点から
繰り広げる論者であり、
ニセ科学批判批判者とは、ニセ科学一般に対する批判に対する反論を展開する
論者であるということです。すなわち両者は同じ視点で議論を行っていないのです。

上記のような状況が現在までに存在するニセ科学批判とニセ科学批判批判という
構造の根本的な問題なのではないでしょうか。
そのようなことを今回の議論で感じました。


ニセ科学批判の動機
この話は一応ここまでにして、
ではニセ科学批判(ここでは一般的なニセ科学に対する批判ではない)が
起こる理由を考えたいと思います。僕は大きく分けて二つあるのではないかと
考えています。

一つは真実を追究する姿勢です。
これは分かりやすくいえば嘘や誤解が世の中に蔓延することに対する嫌悪、
あるいは危機感ということですね。

それに対して、それは実は正しくないんだよと警鐘を鳴らそうとした
人たちがニセ科学批判の先頭にいる気がします。
そしてそれは多くは科学的な知識を持った科学者であることが多いのでは
ないでしょうか。なぜならある一定の分野において一般人よりも知識的に
優れているからです。

ここでは、主に定義の(2)が問題とされます。
そしてその領域では科学者が十分な役割を果たすことが出来るような
気がします。


もう一つは利害についてです。
それは、科学的な根拠が無い、つまり科学でない<ニセ科学の定義の(2)>
ものが、科学を装う<定義の(1)>ことによって、それを人々が信じてしまい、
結果的に人々が損をしてしまう現状があることから生じています。

これは科学的かそうでないかに関わらず、偽装という意味で、人々が損をする
という意味でもあります。
ある効果を謳っているのにも関わらず実はその効果が無い商品を、
消費者がその効果があると信じて購入することによって生じる損がある訳です。

これについてはどちらかというと、科学であるかそうでないかという
議論よりも、偽装なのかそうでないのかという(1)の定義が問題とされる
のではないでしょうか。

もちろんそれ以前に利害の観点でニセ科学を扱うのであれば、
批判されるべき説が非科学であると実証されていることが
前提として必要になるでしょう。


こうして考えてみると、現在行われているニセ科学批判
(ニセ科学一般を対象としない)は、主に定義(2)に重点が置かれている
ということになるのではないでしょうか。
科学者のニセ科学批判の立脚点はそこにあるわけです。

ではそこから先の、偽装かどうかという議論はどうなるのかというと、
科学者だけで対応出来る問題ではなく、
むしろ民法や商法などの法律や社会科学的な側面が強く
なってくるような気がします。
その点に関してのみ言えば、どうも。さんの疑問には一理あるなと
思いました。

科学的に正しいのかどうかというよりも、
だまされているのかそうでないのかという方が一般人にとっては
重要な視点なのではないでしょうか。


今回この二つに動機を分けてみましたが、もちろん両者は互いに
オーバーラップするし、あまり有意義な分類では無いのかもしれませんが、
このどちらに批判の立脚点を置くかでニセ科学批判をきちんと整理出来るのでは
ないかと思ったのです。


ニセ科学一般に対する批判
現在のニセ科学批判というのが、個別の説に対しての反論として存在する
と先にも述べましたが、ではニセ科学一般に対する批判というものは
存在しえるのでしょうか。もしそれが存在するとすれば、それに対する批判
としてのニセ科学批判批判もきちんとした論敵を見つけることが出来るのでは
ないでしょうか。

僕はこれはあるだろうと考えています。
しかしそれはメタな話になるのは避けられないと思います。しかし
一般という時点で具体を捨象している訳で、それは問題ではないでしょう。

例えば技術開発者さんの仰るような、「社会のあり方として何かがおかしく
なっているだろう」というような考察というのが考えられると思います。

また、僕が以前に書いた、言説の背後にあるイデオロギー性や、
科学の権威性、あるいは盲信性なんていうのもニセ科学一般に対する
批判として機能すれば幸いだなと思ったりもします。

この次元の議論はまだまだされ尽くされていないのではないでしょうか。

批判と言っても、ニセ科学一般に見られる共通した事象への
警鐘的な意味以上のものではないと思いますが。


本来なら僕がここで書いた内容が既に書かれているか
確認してから書くべきなのでしょうが、時間が取れないのと、
余裕があまり無いので妥協しました。

また、引用部分をしっかりと明示して議論をしなければ
ならないとは思いますが、コメント部分の文章量がかなり多く、
すべてを事細かに検討するのは厳しいので、
今回は参照として扱わせていただきました。dlitさん、どうぞご了承ください。


誤っている認識などがあれば気軽に仰ってください。

posted by Jack at 22:10 | Comment(35) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |
この記事へのコメント
私自身はとても良いまとめだと思いました。
Posted by どうも。 at 2007年12月23日 12:46
>偽装かどうかという議論はどうなるのかというと、
>科学者だけで対応出来る問題ではなく、
>むしろ民法や商法などの法律や社会科学的な側面が強く
>なってくるような気がします。

 科学を専門にする人が、科学っぽいが内容が間違っている言説を批判するときには、当然科学の知識を使いますが、科学の知識*だけ*を使わなければならない、という縛りはありません。

 定義(1)について。私が、ある特定のニセ科学について批判するときは、「科学の外見を備えているという指摘を、もし裁判官の前でやることになったとして、裁判官を納得させることができるか?」ということを基準にしています。これについては、例えば、公正取引委員会がこれまでに出してきた排除命令で指摘された表現にどんなものがあるか、といったことが参考になります。
 他人の利害に反する場合がある以上、裁判所でやり合うことは最初から考えていました。ですから、定義(2)についても、批判した時点で「科学でない」を客観的に立証できる程度の状況であること、という縛りを入れています。
 定義(1)も(2)も、グレーゾーンがありますから、ぎりぎり灰色が薄くなったここまで、というのを狙っていくこともできますが、私はそうせず、かなり安全側に振って批判を行っているつもりです。

 私は、批判を始めてからずっと、法律の勉強や法律家がどう考えるかといったことに対する情報収集に相当の時間を割いてきました。まともな社会学や法学の人が考えてくれるならありがたいことですが、私自身の当面の課題は、裁判所に話が行ったときに勝てる範囲でやる、ということです。実のところ、科学*だけ*で批判活動が閉じるとは最初から思っておらず、司法判断を引き出すところまでが批判活動だと位置づけています。ですから、科学と法学にまたがった活動になることがある、ということだと思います。
Posted by apj at 2007年12月23日 16:10
 追記です。
 司法判断を引き出す活動は、日本の場合、法律の素人がやったってかまわないのです。日本の民事訴訟制度は、本人訴訟が基本ですから。代理人を立てる方が楽なので、弁護士に頼むケースも多いですし、私も、ややこしい案件は弁護士に頼んでいますが、自分でできそうなものは自分で訴状を書いて裁判所に持って行っています。
 弁論の結果、裁判官から何らかの判断を引き出したことを積み重ねていくと、きっとそのうち法学者が何か考えてくれることもあるかもしれません。この意味で、素人の活動が法学に影響する場合もあります。科学がえらく細分化・専門化して、進歩のほとんどをプロが担う状況になってしまったのとは違います。法学は、社会の中の(一般の人同士が引き起こす)出来事そのものにつながっているからでしょう。
Posted by apj at 2007年12月23日 16:19
「血液型性格判断はニセ科学である」という判断が不適切だとしても
特定の人物を非難している訳でもないので、法律的には大丈夫ですね。
この場合は、ある程度の確定的結論を得るためには社会的な統計調査
などを行う必要があるのでしょうね。
Posted by どうも。 at 2007年12月23日 20:05
apjさま

>公正取引委員会がこれまでに出してきた排除命令で指摘された表現にどんなものがあるか、といったことが参考になります
>他人の利害に反する
>裁判所に話が行ったときに勝てる
>司法判断を引き出す

つまり、マグローブは既に詰んでいる、ということですね
Posted by From kikulog at 2007年12月23日 20:55
>司法判断を引き出す活動

なるほど。提訴 → 訴追で「悪徳商法、一網打尽」戦法ですね。すごい
Posted by apj_yamagata at 2007年12月24日 01:06
どうも。さん、
ありがとうございます。ただ何か足りない部分もあると思うので指摘していただければうれしいです。

apjさん、
コメントありがとうございます。

あまりにも例えば定義(2)の判定を科学者に頼る態度というのも問題だとは思います。

apjさんは(1)の判断においても積極的に活動されているのだということが分かりました。そしてそこでは素人でも問題無く活動できるということですよね。例えアウェーであったとしてもそうしたどこまで出来るのかというのを常に明確にしておけばきっと大丈夫ではないかと思います。


ただ、今回思ったのは、
このような定義にすると、少なくともニセ科学という言葉は非科学以上の意味(定義1のことですね)を持ってくるということです。
これが一般人に取って混乱を招く可能性があることが一つ。

そしてもう一つは、定義(1)にはネガティブなイメージが強くあり、そこには例えば科学であると信じた消費者が実際に害を被っているという事実がなければ容易にニセ科学と呼べないということになるでしょう。
そしてニセ科学だとカテゴライズされる側(企業やその説を主張している人)にとっては、ネガティブなイメージを受ける訳で、そういったところにも細心の注意が必要です。
もちろんその点に関してはapjさんが一番良く心得ておられると思います。

僕自身は、ある非科学な説が科学を装い、それをそれを信じた人が一人でも損を被ったと感じるならニセ科学としても良いのかなとは思います。
そしてその被害者が多ければ社会問題となります。
そもそもニセ科学の問題は騙されて被害を被る人がいるというのが僕の認識なので。
Posted by From管理人 at 2007年12月24日 21:30
一理あると言って下さった部分以外のところで私が言いたいこと、というのは
apjさんも指摘しているように、騙している(意図的かどうかはともかく)
ことになるか?どうか?、は【個々の状況に強く依存する】ということですね。
大雑把に「○○はニセ科学だ」と言うと、かなりミスリーディングだと思う訳
ですね。「○○は非科学である。さらに、ニセ科学である状況も多い」という
感じで言うのがよいのではないかと思います。
Posted by at 2007年12月24日 22:26
> ただ何か足りない部分もあると思うので指摘していただければ

上記はレスのつもりでした
Posted by どうも。 at 2007年12月24日 22:28
 他人様のblogのコメント欄であまり品のない言葉遣いはしたく無かったのだが……。

>「血液型性格判断はニセ科学である」という判断が不適切だとしても特定の人物を非難している訳でもないので、法律的には大丈夫ですね。
>この場合は、ある程度の確定的結論を得るためには社会的な統計調査などを行う必要があるのでしょうね。

 寝言は寝て言え。

 kikulogで議論されている「血液型性格診断」についての話であるという条件付きだが、「血液型性格判断はニセ科学である上に人権侵害である」まで言わないとどうにもならない。就職差別が行われたという話まで出ているのだから。
 統計調査の前に、個別に法的救済を考えないとまずい場合が発生しているという自覚はあるのか?
Posted by apj at 2007年12月24日 23:58
管理人さん、

>そしてそこでは素人でも問題無く活動できるということですよね。

 科学の専門家であることは必要ではありません。というか、科学の専門家を基準にして「科学を装う」を決めたら、ほとんどのものは「只の間違い」と判定されてしまいそうですし。ただ、素人であっても、世の中でどんなものが「消費者を誤認させる」ものとして規制されているのか、ということを理解できる常識は必要だと思います。

>ある非科学な説が科学を装い、それをそれを信じた人が一人でも損を被ったと感じるならニセ科学としても良いのかなとは思います。

 私もこれに近いです。ですから、

>「○○は非科学である。さらに、ニセ科学である状況も多い」

 などというのは、ことさらに問題点をぼかしているだけの言葉遊びに過ぎないと考えます。
 「○○という話には根拠がない、さらに、詐欺である状況も多い」などと悠長なことを言っていたら、被害が広がる一方なわけで、「引っ掛からないようにしましょう」と気づいた人が声を上げ、取り締まる立場に居る人は動く、ということが必要になります。ニセ科学の方は、詐欺まで行けば取り締まる対象になりますが、そうでないなら「その話はニセモノだから信じてはいけません」と言わないとまずいわけです。

 ところで、少し振り返ってみると、最近批判してニセ科学のカテゴリーに積極的に入れているものの中には、伝統的(?)な非科学言説である、
・相対性理論は間違っている
・統計物理学は間違っている
・角の三等分が初等幾何の方法で可能である
などといったものは入っていません。議論の仕方は多分に科学を装っているのですが。しかしこれらは、科学だと勘違いして信じた人が出たとしても、人権侵害や悪徳商法被害とは結びつきそうにありません。
 私自身はそれほど強く意識していたわけではないのですが、批判するかどうかを決める時に、科学を装った結果として現実に被害が発生する、という部分は、実は重要なのではないかと思えてきました。目下のところ採用している(1)の定義に明文で含まれては居ないのですが、何を批判するかの取捨選択にはそれなりに効いているように思います。少なくとも、私がターゲットにしたものについては、現実に被害発生の可能性が相当程度あるか、既に被害が発生したものばかりです。
 対照的に、ちょっと前までの擬似科学批判(といってもネットが普及してからの話)には、例示した非科学言説はよく取り扱われていたような……。
Posted by apj at 2007年12月25日 00:20
「A型は几帳面だ」という発言*だけ*でも、【大袈裟】に言えば人権侵害かもしれませんね。
この程度の人権侵害(?)発言なら、私なんか1日に一言くらいは発しているかもしれません。
だから、大きな問題があるのは個別のケースでしょ。「沖縄米兵の数人」によるレ○プ行為が
あったとして、大袈裟な表現としては「沖縄米軍はレ○プ集団」とか言う表現もありうるかも
しれんけど、それは不正確なアジというものでしょうよ。

「A型は几帳面だ」と発言する*だけ*でも大問題だ、ともしも仮に貴方が考えているのなら、
到底、理解はできないが、貴方の中では筋が通ってはいるのだろう。

(伏字にしないと弾かれるようです。)
Posted by どうも。 at 2007年12月25日 01:42
もちろん、そのレ○プ行為が「沖縄に米軍が駐留していたからこそ、起ったものである」と解釈
するのも特に不自然でなく、さらには「米軍が責められても、当然と考える」のも特に不自然な
ことでもないといった状況が(恐らく過去に)あったように思います。その場合、上記の発言は
アジとしては当然、ありうるものですが、それこそ「真に受けるような発言ではない」のです。
Posted by どうも。 at 2007年12月25日 01:55

血液型性格診断がどのような程度で被害をもたらしているのかという深刻度はそれぞれ違うように思います。ですので互いに説得は出来ますが批判は無意味なはずです。それはここでは止めていただきたいと思います。しかし、血液型性格診断でこれこれこのような件である人が損害を被ったという話なら、それについてニセ科学かそうでないかを論じても良いのではないでしょうか。

血液型性格診断に関しては僕は良く分かりませんが、それが科学的な根拠に基づいていると考える人がいればそれは問題だし、それによって被害を受けている人がいるのであれば対処しなければならないのでしょう。
しかし一方で、血液型性格診断というのはある意味占いや宗教などと同じカテゴリーで扱うべきなのかなとも思います。そしてそこでは科学的かどうかということは問いません。
宗教を信じて騙されたから訴訟を起こすというのは聞いたことがないですし。
Posted by From管理人 at 2007年12月25日 04:42
どうも。さん、

>騙している(意図的かどうかはともかく)ことになるか?どうか?、
>は【個々の状況に強く依存する】ということですね。
>大雑把に「○○はニセ科学だ」と言うと、
>かなりミスリーディングだと思う訳
ですね。

ということは逆に○○の部分が個々の科学を装って人を騙す(ような商品を販売する)件であれば、ニセ科学であるとして良いということになります。もちろん大雑把に全てを一まとめにしてニセ科学と呼ぶことが無いように注意をする必要はあると思います。
しかしそのようなミスリーディングが起こるような状況はあまり多くないような気がします。現在ニセ科学批判を行っている方々が個々の件についての検証から批判を始めている訳で、それが無理な一般化にならないような注意はされているのではないでしょうか。
Posted by From管理人 at 2007年12月25日 04:55
apjさん、

被害が広がりそうであったり、放っておくと良いことが無い言説というのはニセ科学として何らかの対応が求められるのかもしれませんね。

ニセ科学というのは疑似科学から派生した言葉であると思います。そうであるなら一般の人々の間で使われるようになったからこのような言葉が出来たのであって、そこには非科学かどうかという真実の追究だけではなく、多くの人々が関心を持つ損得という部分があるのだと思います。
損得がある問題では自然とモチベーションが変わってくるというのもあるかもしれませんね。

例えば政府が、ある問題が訴訟レベルになるとやっと重たい腰を持ち上げるというような感じでしょうか(笑)

>素人であっても、世の中でどんなものが
>「消費者を誤認させる」ものとして規制されているのか、
>ということを理解できる常識は必要

教養やコモンセンスとしてニセ科学に騙されないためにも持っておく必要があると思います。僕自身の問題としては科学リテラシーだけに留まらずリテラシー全般なんですが。
Posted by From管理人 at 2007年12月25日 06:16
はじめまして、ニセ科学批判者の末席にいる技術開発者と申します。

なんていいますか、自然科学に詳しい者が「あれは科学的に正しい様に喧伝しているが自然科学的に正しくないよ」と言っているというのは、自然科学の中の話ではなくて、社会的な善悪感を根底として言っていると考えています。

そして、ニセ科学批判を通じて感じて居るのは、「我々は善悪感が薄れた社会で生活している」ということです。人間は本来「騙される事を好まない」性質を持っていたと思っていますが、現代の日本人はそのような嫌悪感を失っている様に見えます。また、この嫌悪感は相互利害を通じて「自分は人を騙すようなことをしたくない」という禁忌感も発生させていたのですが、現代の日本人はそのような禁忌感も失っている様に見えます。

「ニセ科学」という用語を社会的なものとせずに、自然科学の中に押し込めて、社会に無関係なものとしてしまおうという意見の根底には、この知性ある生き物として善悪に対して本質的な嫌悪感や禁忌感を持つことを失ってしまった現代の日本人が「自らの姿を直視したくない」という欲求が透けて見える様に思えてならないのです。
Posted by 技術開発者 at 2007年12月25日 08:37
> 血液型性格診断がどのような程度で被害をもたらしているのかという深刻度はそれぞれ違う
> 血液型性格診断でこれこれこのような件である人が損害を被ったという話なら、それについてニセ科学かそうでないかを論じても良い
> 科学的な根拠に基づいていると考える人がいればそれは問題だし、それによって被害を受けている人がいるのであれば対処しなければならない

私もそう思います

> 血液型性格診断というのはある意味占いや宗教などと同じカテゴリー

私自身は、「ニセ科学カテゴリー」に入れるのが適当なもの(状況)と、「都市伝説」や「占い」などとするのが適当なもの(状況)がある、と思います

> ○○の部分が個々の科学を装って人を騙す(ような商品を販売する)件であれば、ニセ科学であるとして良い

もちろん、そう思います。ただ、血液型性格判断という大雑把な括りは、そのような件を指す表現ではないとは思うのですが
Posted by どうも。 at 2007年12月25日 10:49
正しい理解でないかもしれませんが、以下のような発言もあります(参考です)。

科学的なるものの概念 - on the ground
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070707/p1

>伊勢田哲治や菊池誠は、こうした疑似科学ないしニセ科学の実例として、創造科学や占星術、ある種の代替医療、血液型性格判断、マイナスイオン家電、ゲルマニウム製品、ゲーム脳などを挙げている。
>創造科学について伊勢田は、「ほとんど科学と呼べない」とは述べていても、それが「非科学である」とか「科学ではない」などとは断言していない。

>明確な断定に傾きやすい私たちの本質主義的な欲望を刺激し、そうした欲望によって利用されかねないという危険性を伴っている。
Posted by どうも。 at 2007年12月25日 11:08
科学者がニセ科学批判をする動機の一つとして、「科学者自身に降り掛かった火の粉をはらう必要が生じたため」も考慮に入れておいてください。社会のリソースは有限ですので、ニセ科学が蔓延すると、科学にまわすリソースが減ることで、間接的には必ず科学に従事する人に害をなします。それ以外に、直接の実害があることもあります。たとえば、極端な例ですが、旧ソ連のルイセンコ事件なんてのがあります。

ちなみに、私が不完全性定理濫用系をたまに批判しているのも、ふりかかった火の粉をはらっている実例です。
Posted by wd0 at 2007年12月25日 22:57
小説に「科学っぽい表現」が頻出しても、SFであってニセ科学ではないと思います。
【要するにカテゴリーの問題だ】ということになりますでしょうか?
Posted by 疑問 at 2007年12月25日 23:11
管理人さんは「ニセ科学批判者とは、個別の説に対する反論を科学的な観点から繰り広げる論者」とおっしゃいますが、残念ながらいまのニセ科学批判者は科学的な観点から反論することがほとんどありません。先入観や不十分な知見に基づく判断が大部分を占めています。

1年半前には「相手の主張を丁寧に分析し周辺分野の知見を詳しく調べる」という非常にまっとうな主張がされていたのですが、その主張に沿った分析調査がなされたことは一度もないのです。それよりも善悪や被害といった科学的ではない観点からニセ科学を扱おうという動きが顕在化してきました。

下記はきのうのニュースです。
http://www.asahi.com/science/update/1224/TKY200712240119.html
こういう地道な検証こそが、科学の世界では大切だと思うのですが。
Posted by SSFS at 2007年12月26日 00:40
そこに挙がっている7つの例は【科学的根拠が不明】とのことですが、
7つとも(それだけでは)ニセ科学には当たらないように思いますね。
「都市(?)伝説カテゴリー」辺りでしょうか

・脳は10%しか使われていない
・携帯は医療機器に不具合を齎す
Posted by どうも。 at 2007年12月26日 00:55
技術開発者さん、
はじめまして。コメントありがとうございます。

なるほど、正しいかどうかという真理の追究以外にも善悪という視点はあるのかもしれませんね。

ただ僕には、仰るような嫌悪感や禁忌感というのが実感としてはありません。あえて考えるとするなら、例えば「騙される方が悪い」というような競争理念や、お金を儲けるために手段はいとわないなどの倫理観の低下なんていうのがあるのかもしれません。
あとは、ニセ科学を主張している側に騙しているという認識が無い場合ですよね。この場合は嫌悪感や禁忌感の及ぶところではないので…。
Posted by From管理人 at 2007年12月26日 09:30
どうも。さん、

紹介先のリンクの記事読みました。相対主義的な見方をすれば正確性なども気になりますが、実用面でのニセ科学と科学の区別というのがより重要なのではないかとも思います。
もちろんどうも。さんが何度も言われているようにラベルがミスリーディングになるようなこともあるので、気をつけなければならないのでしょうが。
ニセ科学というのは警鐘のためのラベルのような意味合いがあると思うので(「割れもの注意」の札のように)、その有効性がまずは重要な訳です。
Posted by From管理人 at 2007年12月26日 10:47
>ニセ科学というのは警鐘のためのラベル

それには【非科学ラベル】でかなりの程度、用が足りると私は思うのですが。
装っていると言えない状況まで含めて、わざわざニセ科学と言わない方がいいような。
Posted by どうも。 at 2007年12月26日 19:13
こんにちは、管理人さん。

>ただ僕には、仰るような嫌悪感や禁忌感というのが実感としてはありません。

嫌悪感とか禁忌感なんて難しげな言葉を使ったので混乱されたかもしれませんね。

>ニセ科学を主張している側に騙しているという認識が無い場合ですよね。この場合は嫌悪感や禁忌感の及ぶところではないので…。

むしろ、こういう場合の方に禁忌感と衰弱が現れている気がするんですね。例えば、
「うちの亭主まむし酒を飲んだら元気になったわよ」に対して、
「えっどこで手にはいるの、それ」と相手が真面目に聞いた時に
「あの角の薬局で取り寄せてもらったの。まあ、うちの亭主だけかも知れないから、あまり本気にしないで欲しいんだけどね。」なんて、話の後ろに予防線を張る様な事というのは、やはり「自分が効いたと思っているけど、それを伝えることで相手を騙すことになったら嫌だな」なんて意識があるわけです。この部分が「騙す」という事に対する禁忌感の一つの現れだと思うんです。

なんか、今は「自分が効く」と思っていたら、「ぜひ、買って飲ませて見なさいよ」に走りやすく成っている感じを受けるわけです。
Posted by 技術開発者 at 2007年12月27日 18:09
 「非科学」では、カバーできる範囲が狭すぎるんですよ。
「未科学」かつ「科学で解明済みと自称する」ものを「非科学」とは呼べないですから。「ニセ科学」であれば、こういうものも扱えます。
Posted by apj at 2007年12月28日 00:48
それは【未科学ラベル】があると思うけど…

>「科学で解明済みと自称する」
先方さんは「(既に)未科学でない」と主張してる訳だ
Posted by どうも。 at 2007年12月28日 08:24
「科学で解明済み」という部分が【非科学】な訳だけどね
Posted by どうも。 at 2007年12月28日 08:25
科学的でないのに「科学的である」と誤解させて騙す、ということが問題なのですね。科学的でないことは何ら問題ではなく、ポイントは「科学的である」と誤解させて騙すことにある訳です。
ところが、「科学的である」と誤解させて騙すことになるか、ならないかは、主張そのものだけで決まるようなものではなく、その主張がなされた『場の状況に強く依存する』ものです。
ですから、主張がなされた場の状況とは独立に主張だけを取り出して、その主張はニセ科学であるとは言えないのです。
Posted by どうも。 at 2008年01月04日 00:45
また、本来、「オカルト」等に分類すべき対象を疑似科学に分類すべきではない。迷信やオカルトは、それが科学であると誤解されるような要因を持ち合わせない。
サイエンス・フィクション(SF)は科学風の表現を多用する非科学的な言説である。その内容がオカルト等と同じく科学的と誤解されることがなければ疑似科学ではないのだが、
少年や青年の一部にSF作品中の理論づけなどをてっきり本物の科学的な説明だと誤解する者がごく稀に存在することもあるため、疑似科学に分類される。
Posted by ぶりぶり at 2008年01月08日 19:57
どうもさん、

非科学ラベルでは足りないということに対してはapjさんが答えられているようなこともあるように思えます。

>装っていると言えない状況まで含めて

そのような状況が生じないように注意する必要はありますね。


>ところが、「科学的である」と誤解させて騙すことになるか、ならないかは、主張そのものだけで決まるようなものではなく、その主張がなされた『場の状況に強く依存する』ものです。

もちろん主張だけで決まるものではないのかもしれませんが、実際にそれを科学だと信じるケースがあれば、それが即ちニセ科学批判の対象に成り得るということです。
ただ、装っているかどうかは主張からも大体判断が付くものなのではないでしょうか。
Posted by From管理人 at 2008年01月27日 03:26
技術開発者さん

騙してしまうかもしれないということに対する警戒心というか、そういったものが薄れているというのはあるのかもしれません。(ただやっぱり実感としては無いです…)

良心の押し売りというか、自分の価値を押し付けようとする人が多いと言ったら言いすぎでしょうか(笑)
Posted by From管理人 at 2008年01月27日 03:37
ぶりぶりさん

オカルトや迷信というのは、科学とは正反対に位置していますよね。なのでそれを科学と結びつけて考えようとする人は稀です。

SFなんていうのは確かに、ここで言われてることは本当なのかなと考えてしまうことはありますね。そういう意味では騙される可能性もあるわけで(笑)
Posted by From管理人 at 2008年01月27日 03:46
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【非科学 ≠ ニセ科学】「所謂、血液型性格判断」は科学と本当に誤解されているのか?ただの話のネタのようにも思うが…。
Excerpt: どうも。 2007/12/20 01:53 >ある程度確立した科学の内容を基準にして、「間違っている」というときは、その内容の否定そのものになります。 それは「科学的な内容」としては否定されるという..
Weblog: 室井健亮の憂言記
Tracked: 2007-12-23 14:57
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