2008年05月01日

社会人類学の授業に出てみた この記事をはてなブックマークに登録

たまには勉強の報告でも。

現在授業を二つ取ってるんですが(EU論とスカンジナビアの福祉論)
友達が社会人類学の授業を取っていて、興味があったので月曜の
授業に忍び込み参加しました。

少人数授業では無いため、簡単に忍び込めます。
出席を取らないし、出席点(成績に関係する)が無いからです。

その授業では人類学の研究の上で出てくる重要な学者を
追っていくものです。人類学史とでも言えば良いのでしょうか。

最初の数回分の講義は出て無いので内容は分かりませんが、
扱った学者は、デュルケム(Durkheim)、ラドクリフ=ブラウン
(Radcliffe-Brown)、マリノーウスキー(Malinowski)、
そしてレヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)など。

デュルケムとレヴィ=ストロースは有名だと思います。
前者は社会学で多大な功績を残したし、
後者は構造主義を唱え、人類学に大きな影響を与えました。

ただ、どちらも論文を読んだりしっかり勉強したわけでは
ないので、紹介に留めておきます。


その授業では続きでメアリー=ダグラス(Mary Douglas)の話。

有名な著作に、『汚穢と禁忌』(Purity and Danger)があります。
今回は理論の説明だけだったんですが、ざっと説明します。
(はっきり言って正確性を保証出来ないのであしからず。)


社会の秩序は、象徴、コンセプト、認識によって構築されていると考え、
その秩序が崩されることを「汚い」と捉える。

汚い=無秩序、混沌という構図です。

「汚い」と言っても、字義通りの汚さというものでは無く、
心理的に感じる汚さのことなので、注意が必要です。
日本語で言うと、穢れ(けがれ)なのでしょう。

また別の観点で考えると、清潔かそうでないかというのは、
衛生学や科学が発展し、微生物などの働きが解明されてからなので、
そうした以前の段階ではより精神的に汚いかどうかというのが
重要だったとも考えられるかもしれません。

例えば、部屋が汚いというのは、整頓された部屋と対置される状態です。

秩序=きれいということなのですが、秩序というのは、
言葉などで物事をカテゴリー分けする過程で構成されます。
なので、ある二つのカテゴリーが接していて(境界の存在)、
その接点にある存在、つまりどちらにも属さない、
あるいはどちらにも属するような曖昧な存在は、
汚いもの、穢れたものだと認識される。

血縁などもこの考えが適用できます。
例えば純潔と混血という考え方がありますが、
混血=穢れた血という構図は未だに残っていると思います。

混血と言うわけでは無いので良い例では無いかもしれませんが、
ハリー・ポッターでもハーマイオニーがマグル(普通の人間)の親を持つ
魔女であることから穢れた血などと呼ばれて軽蔑されたのも、
こうした考えに近いでしょう。

聖なるものという概念もあったのですが、
はっきり言ってこれは良く理解できなかったので説明できませんが、
自分の秩序世界(境界に囲まれている)の外部に存在するもので、
しかも自らの境界を脅かすもので無いものが、神聖なものとして
考えられるというような話だったような。


他にもジョークを象徴人類学的な考えから分析したりしているみたいです。
それについては論文があったので時間があれば読んで見たいと思います。

明日はヴィクター=ターナーという人について。
段々回を追うごとに説が発展していく流れになっているみたいです。
彼はある共同体(あるいは時間的に区切られた状態)から
別の共同体へ移る段階についての考察をしているみたいです。


追記:人類学を勉強されている方で、これは違うぞというのがあれば、
ご指摘ください。よろしくお願いします。
posted by Jack at 06:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大学・学問 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。