2007年12月22日

ニセ科学批判に関する個人的な考察(草稿) この記事をはてなブックマークに登録

[学問][雑記]「いっちょ有効なニセ科学批判批判論でも考えてみるか→すぐに挫折」から考えたこと
という記事を読ませていただき、
そこにあったコメント群の議論についても精読というほどではありませんが、
大まかな話は把握させていただきました。

もやもやしている部分を出来るだけ整理するためにも、
こうして記事を上げて読んだ内容に関して考えてみようと思います。


ニセ科学に関する考察。

ニセ科学批判やニセ科学批判批判というものが現在あり、
それをめぐっていくつもの議論が起こっています。

順序としては、ニセ科学と呼ばれるようなもののなかで、
例えば水に言葉が伝わるというような説があり、それは違うということを
声に出す人が出てきました。それがニセ科学に対する批判です。
それは主に科学者によってなされました。なぜなら、その説が科学的に
正しいと言えるものでは無かったからです。

ということで、まずニセ科学批判というものは、個別の説に対する
反論という形で生じました。

このような反論は、科学的に疑わしい説が提起されるとともに生じていきます。
そしてそのような批判つきの疑わしい説が増えてゆき、一定数に達したとき、
世の中にはこんなにも多くの疑わしい説が存在しているということに
人々が気付き、それらを一部的にまとめて呼称する、あるいは総称する
ための言葉として、疑似科学とかニセ科学というものが誕生しました。

ある程度そのような疑わしい説の主張者側と批判者側が議論を
戦わせていくうちに、疑わしい説に共通するような特徴が明らかになりました。

それは例えばapj氏と菊池氏によるニセ科学の定義という形で明示されることに
なります。つまり、

(1)科学を装う
(2)科学でない
の2つを同時に満たすもの

というものです。

しかしここで注意したいのは、主に現在行われている批判というのは、
ある個別の説に対する反論という形で行われており、ニセ科学一般に関する
批判という形にはなっていないということです。
これは例えば、apj氏の場合(参照)、

私は、確かにニセ科学批判にカテゴライズされる活動をしてきた。しかし、その中身は「水クラスターの話は間違いでNMRでは測れない」「マイナスイオン水と呼ばずに電解質の組成と量を調べるべき」「トルマリンによる水質改善の話は変だ」といった、個別の主張の集まりである。
と仰るように、まず批判は個別の説に対するものとしてあるわけです。

もちろん批判する側は、批判の対象を明らかにしなければ批判が
空振りとなってしまう危険が存在するため注意が必要です。
そして、反論は個別の説へと向かいました。

つまり現在存在しているニセ科学批判というのは、
ニセ科学一般に対する批判ではなく、個別の説への批判な訳です。
しかしニセ科学批判という言葉だけを考えると、ニセ科学全般を批判している
ような印象を与えてしまうのも否めません。それはミスリーディングを生じます。

そのミスリーディングの結果として、そうしたニセ科学全般を批判している
批判者に対する批判が生み出されたということです。
そしてこれがニセ科学批判批判というものなのでしょう。

僕自身この言葉自体、混乱を招く表現だし、
こうした言葉の言い回しがされているのは問題だと思うのですが、
少なくともそうした状況が存在しているということです。

また、個別の説に対する批判に対する反論は存在しますが、
それをニセ科学批判批判などとは言いません。
そのような言葉遣い自体が不毛です。
そのため、ニセ科学批判批判という言葉は、ニセ科学一般に対する批判という
存在しない論者に対する批判という、論敵が明らかでない議論になったため、
有意義な議論にならなかったという話なのでしょう。

つまり立場を整理すると、
ニセ科学批判者とは、個別の説に対する反論を科学的な観点から
繰り広げる論者であり、
ニセ科学批判批判者とは、ニセ科学一般に対する批判に対する反論を展開する
論者であるということです。すなわち両者は同じ視点で議論を行っていないのです。

上記のような状況が現在までに存在するニセ科学批判とニセ科学批判批判という
構造の根本的な問題なのではないでしょうか。
そのようなことを今回の議論で感じました。


ニセ科学批判の動機
この話は一応ここまでにして、
ではニセ科学批判(ここでは一般的なニセ科学に対する批判ではない)が
起こる理由を考えたいと思います。僕は大きく分けて二つあるのではないかと
考えています。

一つは真実を追究する姿勢です。
これは分かりやすくいえば嘘や誤解が世の中に蔓延することに対する嫌悪、
あるいは危機感ということですね。

それに対して、それは実は正しくないんだよと警鐘を鳴らそうとした
人たちがニセ科学批判の先頭にいる気がします。
そしてそれは多くは科学的な知識を持った科学者であることが多いのでは
ないでしょうか。なぜならある一定の分野において一般人よりも知識的に
優れているからです。

ここでは、主に定義の(2)が問題とされます。
そしてその領域では科学者が十分な役割を果たすことが出来るような
気がします。


もう一つは利害についてです。
それは、科学的な根拠が無い、つまり科学でない<ニセ科学の定義の(2)>
ものが、科学を装う<定義の(1)>ことによって、それを人々が信じてしまい、
結果的に人々が損をしてしまう現状があることから生じています。

これは科学的かそうでないかに関わらず、偽装という意味で、人々が損をする
という意味でもあります。
ある効果を謳っているのにも関わらず実はその効果が無い商品を、
消費者がその効果があると信じて購入することによって生じる損がある訳です。

これについてはどちらかというと、科学であるかそうでないかという
議論よりも、偽装なのかそうでないのかという(1)の定義が問題とされる
のではないでしょうか。

もちろんそれ以前に利害の観点でニセ科学を扱うのであれば、
批判されるべき説が非科学であると実証されていることが
前提として必要になるでしょう。


こうして考えてみると、現在行われているニセ科学批判
(ニセ科学一般を対象としない)は、主に定義(2)に重点が置かれている
ということになるのではないでしょうか。
科学者のニセ科学批判の立脚点はそこにあるわけです。

ではそこから先の、偽装かどうかという議論はどうなるのかというと、
科学者だけで対応出来る問題ではなく、
むしろ民法や商法などの法律や社会科学的な側面が強く
なってくるような気がします。
その点に関してのみ言えば、どうも。さんの疑問には一理あるなと
思いました。

科学的に正しいのかどうかというよりも、
だまされているのかそうでないのかという方が一般人にとっては
重要な視点なのではないでしょうか。


今回この二つに動機を分けてみましたが、もちろん両者は互いに
オーバーラップするし、あまり有意義な分類では無いのかもしれませんが、
このどちらに批判の立脚点を置くかでニセ科学批判をきちんと整理出来るのでは
ないかと思ったのです。


ニセ科学一般に対する批判
現在のニセ科学批判というのが、個別の説に対しての反論として存在する
と先にも述べましたが、ではニセ科学一般に対する批判というものは
存在しえるのでしょうか。もしそれが存在するとすれば、それに対する批判
としてのニセ科学批判批判もきちんとした論敵を見つけることが出来るのでは
ないでしょうか。

僕はこれはあるだろうと考えています。
しかしそれはメタな話になるのは避けられないと思います。しかし
一般という時点で具体を捨象している訳で、それは問題ではないでしょう。

例えば技術開発者さんの仰るような、「社会のあり方として何かがおかしく
なっているだろう」というような考察というのが考えられると思います。

また、僕が以前に書いた、言説の背後にあるイデオロギー性や、
科学の権威性、あるいは盲信性なんていうのもニセ科学一般に対する
批判として機能すれば幸いだなと思ったりもします。

この次元の議論はまだまだされ尽くされていないのではないでしょうか。

批判と言っても、ニセ科学一般に見られる共通した事象への
警鐘的な意味以上のものではないと思いますが。


本来なら僕がここで書いた内容が既に書かれているか
確認してから書くべきなのでしょうが、時間が取れないのと、
余裕があまり無いので妥協しました。

また、引用部分をしっかりと明示して議論をしなければ
ならないとは思いますが、コメント部分の文章量がかなり多く、
すべてを事細かに検討するのは厳しいので、
今回は参照として扱わせていただきました。dlitさん、どうぞご了承ください。


誤っている認識などがあれば気軽に仰ってください。

posted by Jack at 22:10 | Comment(35) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

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