2007年12月10日

科学というオブラート この記事をはてなブックマークに登録

以前、「覚えておきたい、ニセ科学リスト」という記事を読んだことがあります。
そのリストに挙げられているものとして、
例えばマイナスイオンやゲルマニウムなどがあります。

このリストを見て、
ああ確かにそんなのもあったな、と思うのがあれば、
あれこれはニセ科学として切って捨てていいものなのかな、
と感じるものまでありました。

そういえば結構そういうものって健康ブームと相まって
かなりいろいろあるんじゃないかなとも思います。

例えばマイナスイオンに関して上の記事では、
マイナスイオン:
そもそも言葉としての実体がない。負の電荷を持つイオンは陰イオン、あるいはアニオン。

仮に陰イオンのことだとしても、体に良いなどとする根拠が科学的に立証されたことはない。

最近はメーカもニセ科学呼ばわりを警戒しているのか、マイナスの部分を適当に言い替えていることが多い(例:nanoeイオン)。

とあります。陰イオンというのは化学でやったように、
電子を授受して結果的に電荷的に負になっている原子や分子を指します。

しかしその陰イオンをマイナスイオンが指すとしても、
それが健康に良いという科学的な実証はされていないということです。
でもマイナスイオンが出るという商品って探せば今でもかなりあるので
はないでしょうか。マイナスイオンの出るドライヤーとか(笑)
そういえば確か実家にあるドライヤーもそういうのだった気がします。


以上余談でしたが、このようなニセ科学というのが実は
身近なところに存在しており、時にはそれによって被害を
受けることもあるので、放っておくわけにはいかないというのが現状
のようです。

ニセ科学の他に疑似科学という名称もあり、
その使い分けは分からなかったのですが、
Wikipediaによると(参考程度で。)
疑似科学:
学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う。

日本語では、「科学ではない」ということをはっきりさせるために、ニセ科学あるいはエセ科学という語を用いる人もいる。

ということで、ニセ科学というのは、
科学的な根拠に基づいていないということを前面に押し出した言葉
だと言っても良いのかもしれません。
しかし用法的にはそこまで両者に変わりはないように思います。


では本題に入るとしましょう。
そしてこの記事を直接書くきっかけとなったのが、
極東ブログの二つの連続した記事でした。

[書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク)
[書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク) その2

僕はこの本を読んだことが無いのですが、
原題がVoodoo Science(魔術的な科学)で、
ニセ科学だと思われるものを著者が切っていくというものだそうです。
だから先に挙げた記事と同じ趣旨な訳です。(扱う対象は違いますが)

最初の記事で、そのレビューというか、本の内容に触れつつ
リズム良く独特な運びでおもしろおかしく書いていくわけです。
(あまりブログ世界に詳しくないので何を言ってるのか分からない
ところもありましたが…。)

その感想的にはこの本を結局批判しているのかなと思いきや
続く記事ではこの本は良書だと言っています。

つまり最初の記事ではこの本をもともと好意を持って
扱っていて、ユーモアで少しつっこんでみたりしたということでしょうか。
まだ読みが浅いのかなって(笑)まだまだです。


一つめの記事の最後でにある言葉が、
なんだかよくわからないのだが、やけくそで雑駁な印象を言うと、偽科学を問題にしている人って、なんか偽科学と同じような臭気を放つという点でそれほど変わらないような気がする。

です。

これについては、ある物をニセ科学だと言い切るのは、例えば
マイナスイオンが体に良いという言説と同じレベルになってしまう
可能性があるということなら確かにそうかもしれません。

そして二つ目の記事でこれをさらに進めて、一つの考えが出てきます。
単純な話、これが偽科学のリストですよぉみたいのを信じちゃったら偽科学への対応と同じ盲信だし、そのリストが微妙にイデオロギー的な偽科学を排除していたら、変でないのと思うしかない。

つまりこれはあるニセ科学を本物だと言われて「信じる」のと、
これはニセ科学だと言われて「信じる」のは同じことだということです。

finalventさん(極東ブログの著者)の意図を上手く汲み取れているか
自信がありませんが、ここで信じるではなく「信じる」とした理由を
さらに説明していこうと思います。

これは一般論にしていいかどうか分からないのですが、
僕は科学=客観的、あるいは正しい、というイメージを持っています。

上手く言葉で説明出来ませんが、科学は万能だとか、
世界を解明するための最も優れた道具だなんていう考えです。
ある物事を判断するときに、科学的に正しいのかどうかという事が
最も重要なCriterion(判断基準)であると言えるかもしれません。

なので、マイナスイオンなんていうのであっても、
例えばテレビで科学的にその効果が実証されたみたいな
雰囲気があれば(厳密に判断する程科学的な知識が十分にない
というのもありますが…)そうだと「信じて」しまうということです。

そこには科学への盲信性があるのではないでしょうか。

だから、逆にこれがニセ科学だという主張が科学的であれば、
あるいは、科学的根拠に基づいているように見えさえすれば、
そうなんだと「信じて」しまうということでもあります。

これが上で引用した考えの背後にあるのだと思います。


だからこそ、その盲信性を意識することが必要なのではないでしょうか。
科学は絶対だというのが深層意識にしみこんでいるというか。
科学的だということに対し、そこで思考が停止してしまう恐れがある
ような気がします。

そして、科学的な言説にだってイデオロギーは存在するということを
忘れてはならないように思います。そのイデオロギーについて考える
以前に科学的であるというだけで「信じる」ことがあってはならないのです。

科学は初めにこうあるべきだという理論を立て、
実験や観察などの検証を通してその正しさを証明します。
(この定義は少し曖昧かもしれませんが。)

そのためまずはこうなるべきだという説、
つまりイデオロギーがあるのではないでしょうか。
そしてそのイデオロギーの正しさを科学を担保にして主張する。

そして科学への盲信性によって、科学がイデオロギーに
オブラートをかけていることに気づかない。
つなわち、科学への盲信性があると、科学の背後にあるイデオロギーが
見えなくなってしまう可能性があるのではないでしょうか。



丁度最初の記事の方で地球温暖化説について本から引用しているので、
本来ならここはスルーするべきかもしれませんが、少し触れてみたい
と思います。(具体例にもなるかもしれないので。)
「異論を仮に思ってもブログとかで言わないほうがよさげな話題リストの一項目」と書いてあるように、すごく難しい問題です。


孫引きになりますが、パーク氏は地球温暖化説について
科学者の見解が多岐に渡っていることについて、
すべての科学者が科学的なやり方に信頼をおき、おなじ観測データを入手しているのに、なぜこれほど科学者のあいだで意見のくいちがいがあるのだろう? 気候論争が物理の法則で解決できるなら、意見の相違はないはずだ。では、くいちがう理由はどこにあるのか? どうやら、科学的な事実、科学的な法則、科学的な手法とはあまり関係がないようだ。

ここまで言い切ってるのは、一瞬あれ?と思います。

「気候論争が物理の法則で解決できるのなら」とありますが、
解決出来ていないのが現状だと思います。だから仮定が違うかと。
気候システムの全容が科学的にまだ解明されていないために、
いくつかのファクターを考え、その関連性を検討しなければ
ならず、そこで相違が出てくる。結論は同じですが。

ですが、解決できないことで相違が生じ、
そこに解釈の余地が出てくるのではないでしょうか。
もちろん科学的なものと関係ないというのは言いすぎかもしれませんが、
気候システムの全容が分からないために、その全容を捉える上で
そこにイデオロギーというか、こうあるべきだという考えがあるのではないか、
つまりパーク氏に言わせるなら、政治的、あるいは宗教的な考え方が
含まれるのではないかということです。

これについては僕は一理あるんじゃないかと考えています。
モチベーションとしてそういうものがあるのではないかということでも
あります。

もちろんIPCC(気候変動に関する政府間パネル)はあらゆるファクター、
可能性を考慮しており、その上で温室効果ガスが増加しており、
温暖化の原因は人為によるものである可能性が極めて高いとレポート
しているのです。それについて科学者でない者が口を出す余地は
ありません。

温暖化という傾向は存在する。そしてそれは人為的な可能性が高い。
では更に進めて、今後どのような対策を取るのが最も適切なのか
という問いについてはまだ議論されています。一方では二酸化炭素
排出を削減する事で温室効果ガスを減らすのが最も効果的だとする
意見があり、また他方では人間に出来る対応策は何も無い
という意見もあるようです。

そこには持続的な発展という指標があったり、様々な思惑が絡み、
イデオロギーが入る余地はあるのではないか、と考えています。
例えIPCCのレポートが科学者達によって作成されているとしても、
彼らに政治的、あるいは宗教的な考えが無いとは言えません。


そして、だからこそ科学的にこれこれだと言われて
それを「信じる」のではなく、その背後にあるかもしれない
イデオロギーについても見極める必要があるんじゃないかな
とも思うわけです。


温暖化問題を例にしたのは微妙だったかもしれませんが、
科学が客観的、公平であるという考えからくる盲信性について
意識するのは、ニセ科学などを考える上で必要ではないでしょうか。

(あとは科学的な知識を自ら身につけて科学を装うニセ科学を
 見破るという方法があると思いますが。)
posted by Jack at 09:53 | Comment(3) | TrackBack(5) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月09日

Only One?-No One, Nobody この記事をはてなブックマークに登録

オンリーワンと言えばおそらく数年前に大ヒットした
SMAPの「世界に一つだけの花」を思い浮かべる方が多いだろう。

つい最近友達とメッセで会話しているときにこの言葉が出てきて、
オンリーワンのことを先輩が好きじゃないと言っていたという
話になった。

僕はこの言葉には素敵な面もあるとは思うが、
解釈を間違えればマイナスの言葉になるとも考えている。

そのマイナスの面をその先輩も言っていたのだが、
要は「私たちはオンリーワンなんだ」と言って、
そこで自分を磨こうと頑張ることをやめてしまうこと。

そうやって進歩しようとすることを諦める口実にしてしまうことだ。

この構図は、私たちはみんなオンリーワンだと言って、
励まし合う、というより励まして前に進むのではなく、
お互いに傷をなめあい、その場所に留まるということを意味する。

さらに踏み込んで言うならば、その傷のなめあいによって
人は前へ進むことを忘れてしまう。というより前へと進むことが
出来なくなると言ったほうが適切なのかもしれない。

確かにそこに自らの場所はあり、安堵できるものだが、
そこで留まっていればいるほどそこから抜け出すことが
難しくなる。

そこまでいかなくても、オンリーワンというのは、
消極的な意味を持っているのだと思う。


ところで今の僕はどうだろうか。
オンリーワン(Only One)と言えるだろうか。

そうではない。僕はノーワン(No One)だ。
ノーワンであり、ノーバディ(Nobody)である。

ノーベル科学賞を受賞した利根川進は、
立花隆との対談で、自らの研究をさせてくれるスポンサーとなる
研究所を探したが、当時は誰も助けてくれなかった、
と言っている。

そして立花隆が、ノーベル賞を受賞したあなたが
そんな扱いをされていたのか、という驚きをもらしたのに対し、

当時私はノーバディでしたから、

と答えている。

Nobodyとは、英語で名も無い人、取るに足りない人という
意味がある。

つまり当時の利根川進は、自身の功績が社会的に認められておらず、
ただの一研究員であり、ノーバディだったのだ。


もちろん僕が利根川進と同様にノーバディを名乗るのは
多少気後れがするが、
実際に僕は世間から見ればただの一大学生であり、
ノーバディであることに変わりは無い。


大学での生活はもうすぐ二年を過ぎようとしている。

神奈川県から一度も足を踏み入れたことが無く、
大学説明会にも行かずに入学した国際教養大学。

高校二年の冬、蛍雪時代の特集ページで、
「授業はすべて英語」という謳い文句に惹かれ、
それ以来模試の際には志望校に必ず入れた。
教養大学という名前も受験動機にはあった。

高校時代の勉強ではまだまだ足りないと思い、
もっとさまざまな科目を取って学問の大きな
枠組みのようなものを知りたいと考えていた。
そこで大学には教養学部があるところを選んだし、
出来るだけ面白い学生が集まり、勉強の選択の幅が
あるところに絞った。

公立大学であるが、
出来たばかりの大学であり、
当時まだそこまで競争率は高くなかった。

もし僕が入学すれば、3期生となり、
まだまだ大学を作っていく主体になれるのでは
ないかと思っていたし、少人数の大学というのも良かったと思う。


一年の頃は、受験時代に鍛えてきた英語に自信はあったものの、
英語の授業を受けるために必要なリスニング力やスピーキング力は
ほとんど無く、しかも入学してきた同級生には一年間留学していた
人も少なくなく、彼らに負けないように必死で頑張った。

それと平行して、高校時代に一生懸命に打ち込めなかった部活動など、
勉強以外の活動にも力を入れると決めていた。

だから三つまでしか入ることを許されなかった部活・サークルに
5つ・6つも入り、スケジュールに追われる忙しい日々をすごした。

エネルギーが無くなるなんて考えなかったし、むしろ
エネルギーを使えば使うほど出てくるという考えでいた。
途中何度か風邪を引いたりしたけど、勉強ではやることはやったし、
少なくともやらなければいけないことはこなしてきたつもりだ。


そして今ではこうしてノルウェーでの生まれて初めての海外生活を
経験し、その生活もあっという間に半分というところまで来ている。
こっちでは時間に追われる今までの生活とは対照的に、
自分で完全に責任を持ってやりたいことをやりたいときにやるという
生活を実現している。くつろぐことも出来、いろんなことにチャレンジした。

もちろん授業に出るのも自由だ。学生規模が大きいので
出席を取るところは無く、好きなときに出席していればよかった。
そして出なかったツケは自分に回ってくるし、そこに対しては
責任を取らなければいけないが、それ以外は本当に自由にして良い。

そして自由にやってみて感じたのがもちろんある程度は
英語を話さないといけないという強制的な環境ではあるが、
実際に話さなくても生きていけるということだ。
つまり、話したいという気持ちが無いと、一向に英語は上手くならない
ということでもある。
こちらから積極的にいかないと向こうは受け入れてくれないし、
その意味では少し消極的だったのかもしれないと反省している。
だから残りの半年は思いっきりそれこそこっちでしか出来ない
こともしてみようと思う。

留学から帰ってきたら、やることはたくさんある。

車の免許は取らないといけないし、
インターンシップだってある。

そして帰ってくるのが3年生の夏だから秋には
リクルートの登録など就職活動の火蓋が切って落とされる
わけだ。

大学院へと行く道も残されているが、よほどやりたいことが
無い限り、つまり高いお金を借りてまで払うほど行く気がある
場合にしか考えられない。特に理系学生では無いため、
大学院進学というのはまだまだマイノリティだろう。


ここで最初に触れたノーバディというところに突き当たる。
インターンシップが僕の大学では必修単位となっているのだが、
インターンシップ先は自由に決められる。
もちろん大学が企業と独自にコンタクトを取ってくれて出来た
インターンシップ先を選ぶというのが一番簡単な手だ。

しかし出来れば自分で働いてみたいと思う企業を
自らの手で選びインターンシップをするというのが
理想だ。
そのために試しに二つの会社にメールを送ってみた。
しかし返信は無かった。もちろんこちらに不備があった
のかもしれない。でもそこにあった現実は、
自分はまだ何者でもない、つまりノーバディだという実感だった。

自分がどのような人間かというイメージは
他者との交流を通じて、あるいは他者という鏡を通して
形成されるものだ。分かりやすく言えば、
自分を石の塊だとすれば、他者との交流を通じて
削りだされていくのが自分ということだ。

そうして作り上げてきた自分を持ったまま、
あるいはそれが自分だと思いながら就職活動、あるいは
インターンシップへと進むと痛い目に合う。

そこにある現実は、ノーバディな自分なのである。

もちろん向こうの人間は僕のことを全く知らないし、
分かるのは一大学生ということだけであろう。
そこには僕が大学で築いてきた僕のイメージというのは通用しない。
これが自意識過剰な考えだと言うのは頭では分かっていたつもり
だったが、実際にはそうでは無かった。

だからメールの返信が無いことを知ってああ、分かってなかったんだな、
と思った。では大人しく大学が提供してくれているインターンシップ先
から選ぼうかということになるが、それは最後の手段にしたい。

大学の助けを出来るだけ借りることなくインターンシップ先を
勝ち取ってみたいと思う。

待っていても企業が向こうから僕がどんな人間かなんて
知ろうとしてくれるわけが無い。
そんな甘えは捨てなければならない。

こっちからどんな人間なのかをアピールしていかなければ
ならないのだと思う。

まだ就職活動までは時間がある。
しかし社会へ出るに向けてこの姿勢は大事にしていきたい。

NobodyからSomebodyへ。

サムバディ(Somebody)というのは、
ひとかどの人物、大物という意味がある。

大物になれるかどうかは置いておくにしても、
社会において何者かにはなりたいと思う。

インターンシップ先を勝ち取るというのは
そのための一歩にほかならない。
posted by Jack at 09:47 | Comment(2) | TrackBack(0) | 就職・インターンシップ・大学院 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月06日

NAUSICAA、そして宮崎駿 この記事をはてなブックマークに登録

昨日はノルウェー人のルームメイトと
風の谷のナウシカを観ました。

英語版を観たんですが、
ナウシカの音声はなかなか良かったです。
いつもは日本語版の音声以外は駄目だって思ってたんですが、
この作品ではなかなかいい感じでした。

その友達は以前大分にあるAPU(アジア太平洋大)に
一年留学していたこともあり、結構日本のアニメとかにも詳しいです。

彼が言うには、もののけ姫は英語音声も良かったと言ってました。
ナウシカだけはちょっとジブリの中でも
取っ付きにくいという印象があります。

確か最後に観たのが小学生ぐらいの時で、
あのオームが大量に押し寄せるところと、
ラン、ランララ、ラン、ラン、ラーン♪
という少女の歌声だけが記憶に残っているのも
ありますね(笑)

その二つが合わさってちょっと悪夢っぽくなっているというか…。

でも実際に観てみると
観てみて正解だったなと思いました。

この作品は確か宮崎駿氏が最初に作ったアニメーション映画で、
(調べてみたら、長編ではカリオストロが最初でした。この作品が二作目。)
テーマ的には一番重いでしょうか。

そのことについてさっと書いてみてもいいのですが、
今回は宮崎アニメに共通する部分をちょっと考えてみようかなと。

もちろんジブリアニメとして考えても支障はありませんが、この作品が
スタジオジブリ前に作られており、高畑勲監督のアニメもあるので、
宮崎駿の作品を主に考えるほうが正確かなと思います


まずこの作品でもそうですが、
自然がひとつの大きなモチーフとなっていること。

これは想像すれば分かると思いますが、
トトロ、もののけ姫、千と千尋、そして
ぽんぽこ(監督作品ではないけど)などなど。

千と千尋の物語は少し違うかもしれませんが、アニミズムというか、
神様の世界という点では自然というくくりに入れることが
出来るでしょう。

動物もすごく活き活きと魅力的に描かれています。
ナウシカに出てくるキツネリスのテトなんかもそうですし、
もちろんトトロの動作もすごく愛らしくて、匂いを嗅ぐ動作とか、
耳を動かしたりするちょっとした描写がすばらしいです。

実際にナウシカに出てくる生き物はお世辞にも可愛いとは
いえませんが(笑)、動作などを含めると決して嫌いになれない
不思議な魅力を持っています。


女性は快活で、明るいし、
老人は賢くて、尊敬され、元気。
ナウシカでは長老が神話を語り、村人は彼女の知恵を
頼りにしています。

今のアメリカなどでは若いことに価値があり、老人は
老いぼれて容姿も醜く、いやな存在です。
しかし、従来村落などでは老人は生きる知恵を持つ、
尊敬されるべき人間でした。
文化の変化や時代の変化もあるのかもしれませんが、
現在ではそのような扱われ方はされていません。


そして最も根本としてあるのが、
ナウシカのような少女が必ず出てくること。

トトロや千と千尋は少し違うかもしれませんが、
モチーフとして、神聖で、少し神秘的、そして純粋な少女が登場します。

そして多くはそこに少年が出てくる。
こちらも真っ直ぐで勇気がある。

ラピュタやもののけ姫、千と千尋などがそうでしょうか。


あとは、「悪役」というのがいないこと。
勧善懲悪なんて言われますが、大体のストーリーでは
悪役がいて、それを排除して終わりというものが多い中で、
宮崎駿のアニメでは悪役と言えば、必ずと言って良いほど出てきますが、
悪巧みはするけど、それぞれにきちんとした立場があります。
その多くはずっと「悪役」でいることがないというのも特徴です。

中にはラピュタに出てくるような悪役はいますけど(笑)


もうひとつ忘れていました。
食べ物が美味しそうに描かれていますよね。

観ているとよだれが出てくるような、
まるで観てるだけで匂いや味が感じられるような食べ物。

ラピュタで、目玉焼きをトーストにはさんで
食ってるのは忘れられません。


それにアクションもかっこいい。

あの前を向いて真っ直ぐ走る勢いのある動き。
その動きに自然と身体が反応してしまう気持ちよさがあります。


挙げていくときりがないですね。

てな感じで、ちょっと宮崎駿氏がどんなことを作品にしているのかを
考えるのも楽しいです。思想的な面にも注目してみたいですね。
機会があればナウシカの原作も読んでみたいかも。

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posted by Jack at 19:57 | Comment(0) | TrackBack(1) | 批評〜書籍・映画・ドラマ〜 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

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