2007年12月17日

ノルウェー留学記〜From Copenhagen to Bergen この記事をはてなブックマークに登録

大分間が空いてしまいましたが、続きを書いてみようと思います。
前回のはこちら:ノルウェー留学記〜From 成田 to Copenhagen〜


さて成田からデンマークのコペンハーゲンへ着いたのだったが、
目的地へのベルゲン行きの便は4時間後に出発するため、
それまでなんとか時間をつぶさなければならなかった。

前回書いたように時間が経過していったのだが、そんなことをせずに
空港を出てコペンハーゲンを見物しようとする気は起きなかった。
というのも、英語を使って買い物をするだけでかなり勇気を振り絞らなければ
ならなかったので(情けない話ではあるが)それどころでは無かった。

大学では少なくとも一年半英語を鍛えてきたのだが、
やはり会話になるとややぎこちなく、プレゼンでもドギマギすることが多かった。
その代わりエッセイやリーディングなどの高校受験の延長的な部分はある程度
自信があった。しかしこっちに来てみてやっぱり出来る人は出来るし、
まだまだだと思っている。それはこれからも磨き続ける必要があるだろう。

いよいよ出発の時刻になった。
パスポートを見せて受付を終え、搭乗ゲートへと向かう。実はまだこの時になっても本当にベルゲン行きの航空機があるのかと疑っていた。何しろ初めての海外での航空機の利用でもあったし、何もかもがはじめてなので不安はあった。
まあそれでも何とかなるだろうという楽観的な考えは持っていた。電光掲示板に表示されたゲートの場所に行ってしばらくするとフライトアテンダントとパイロットとおぼしき団体がやってきて、航空機への搭乗が始まった。
他の客をざっと見回してみると、北欧系(?)と思われるような長身で金髪に青い目の人が数人いる。アジア系の人もいるが、話している言葉からすると中国人のようだ。年齢的には高齢者が割と多かった気がする。
(写真は搭乗ゲートからのワンショット。クリックで拡大できます。)

フライトの時間は約一時間で、秋田―東京(羽田)間とほとんど変わらず、
早く着いて欲しいと思っていた。外もかなり暗くなっていた。

機内に乗り込むと、座席は通路側だった。こういうときは窓側なら景色が
楽しめるのにな、と思いながらも長時間のフライトで疲れて、眠かった。
しかもうっかり薄着で来てしまい、半袖シャツに半袖の上着しか着ておらず
待ち時間の間にすっかり冷え切ってしまい(というか空港でジェラートを食べたのが
まずかったのだろうが…)何か温かい飲み物が飲みたかったので、
機内サービスで飲み物が来るのを待っていた。

通路側からコーヒーのいい香りがして前を見ると、男性のフライトアテンダントが
カップとコーヒーの入った容器を運んできたので、ここで勇気を出して(?)
声をかける。温かい飲み物だ、やったー、と思って飲もうとしたその瞬間

"〜krone?"(「〜クローネになります。」値段は覚えていない。)

と言われ、え!?お金取るのかよ!と思わず心の中で叫んでしまった。

まあ確かにすべての人に順番にサービスしていなかったのでその時点で無料
ではないことに気づけば良かったんだが、既に前の買い物で出来ていた小銭を
早速使って支払った。
そしてこれが海外で2番目の買い物となった。

(※ちなみになんとこれはノルウェーではすべてのサービスにはお金が要るという
  ことを暗示していたのでもありました…。)

コーヒーを飲んだ後はすぐに眠くなり、うとうとしているうちに
あっという間にベルゲン空港へ着いた。


(翌朝撮影した航空機の写真。クリックで拡大できます。)


あとは寮へ着けば無事今回の長い旅路は終了だ。

しかし、寮へは翌日行かなければならない。
というのも、入寮の際にまずは鍵をもらわないといけないのだが、
その受付が僕が着く時刻にはとっくに閉まっており、行っても仕方が無いためだ。
航空券を取る時にしっかりと時刻まで調節出来れば良かったが、
インターネットでチケットを取ったので時間帯は変更出来なかったのもある。

だからとりあえずはホテルに一泊して、翌朝寮に向かうつもりでいた。

ホテルは事前に予約していなかったので
(※ここでも何とかなると思って準備を怠ってしまった楽観的な自分がいます…。)
空港にあるであろう観光客向けの地図を探した。

ベルゲンガイドみたいなのを見つけたが、致命的なことに
フランス語とドイツ語しかない。どうやら英語版は無くなってしまったようだ。

とりあえず他にもいくつか地図を見つけて、ざっと見てみると、
空港は市街から離れたところにあり、市街のホテルへはかなり時間が
かかりそうだった。


・・・・・・。


ここで僕は一つの決断を下した。

空港で一夜を過ごすことにしたのだ!

一応ベンチに腰をかけてどうしようかと悩んでいたところ、
他にも近くのベンチで纏まって外に出そうに無い人が数人いたので、
もしかしてこの人たちも空港で一夜を過ごすつもりなのかなと思ったからでもある。


ということで次回に続きます!
書きながら自分でもよくこんなに無茶したなと思います。
これから留学をされる方は僕を反面教師にして(?)頑張ってください。
荷物や送るものばかりに時間をかけすぎて、肝心の旅行計画にまで
手が回らなかったのは少々反省しています…。

※一人の野宿は大変危険ですので、女性の方は決して真似しないでください(笑)


追記1:こんなことを回想している間にも再び旅立ちが近づいています。
   19日からスウェーデンへ旅行してきます。大学(AIU)で友達になった
   スウェーデン人のところへプチホームステイのような形になります。
   場所は首都のストックホルムです。今いるベルゲン(ノルウェー)は
   スカンディナビア半島の西海岸沿いで、比較的暖かく、雪も積もるほど
   降っていません。(これって秋田以下かも…。)なのでストックホルムの
   寒さに耐えられるか少し心配です。

   そして28日には日本へ一時帰国です。
   14日に成人式があり、それに合わせての帰国となります。
   ああ、こたつが恋しい!お酒も飲める年齢になったので、あまり
   はしゃぎすぎないように気を付けて、楽しみたいと思います!

posted by Jack at 21:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 留学・語学 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月16日

科学への信頼とは。 この記事をはてなブックマークに登録

以前、「科学というオブラート」という記事を書きました。

そしてpoohさんにトラックバックをいただき、
エントリで丁寧に僕の記事を併せて論じられていたので(参照)、
返事の意味をこめて、再び記事を書きたいと思います。(記事内のコメントも含め)

ニセ科学に関して

まず最初に明らかにしておきたいのが、僕の立場です。
僕はニセ科学に対して批判的でもないし、ニセ科学批判に対して
否定的でもありません。

これは僕がそもそもニセ科学とは何か、ニセ科学批判とは何かという
部分をしっかりと理解していないというのもあります。
それはご指摘の通りだと思います。

そこで今分かる範囲での僕のニセ科学に関する理解を整理してみようと
思います。

まず「科学的」と言う言葉に関して。
ニセ科学が科学的かどうかということを論じるにあたり、
まず科学的とはどういう意味かが明確でないと、批判が
成り立たないと言うことにもなるので、そこはしっかりと
定義をしなければならないと思います。poohさんは、「科学的」に関し、
科学的、と云うのは「科学の手順を踏んでいる」と云うことで、その手順を踏んでいないものがニセ科学。で、科学は絶対でもないし万能でもない。

と仰っています。

これに従うと、科学の手順とは何かということになります。
それは観察や実験を通して蓄積され、洗練されてきた理論的な
知の総体系とでも言えば良いのでしょうか。

理論は実験や観察によって常に実証、あるいは反証され、
逆に理論の積み重ねによってある事象を予測し、説明することが出来ます。
ある理論群が実際に正しいと仮定すれば、それらを論理的に
結びつけることによって導き出される結論は正しいものだからです。

もちろん理論は後に新しい発見などによって反証されることがあります。
それは我々の認識に限界があるからで、またその認識は技術による
制約も受けると思います。


マイナスイオンについて

また記事中でマイナスイオンを具体例として扱ったのですが、
結果的に誤った認識を持っていたことが明らかになりました。
これは勉強不足だったと反省しています。
十分に理解せずに安易に具体例として使ってしまいました。
そしてこれが安易なニセ科学批判に他なりません。

指摘された内容を含めて改めてマイナスイオンが
ニセ科学であるとするならば、

そもそもマイナスイオンが何を指すのかが(陰イオンであっても、そうでなくても)
明示されておらず、科学的に実証しようが無い

ということになるでしょうか。
こういったものは何であるかが分からないので、反証も不可能です。
実体が無いものの持つ効果を科学的に云々できる訳がないということです。

これについて異論はありません。

また、ニセ科学が理論として存在するのではなく、
実際に実生活の中に入り込んでいるというのが
問題の根本にあるのかな、と今回感じました。
例えば明らかにばかげた理論などというのは
学会でさえも当たり前のように存在するわけで(?)、
それ自体はそこまで問題ではないと思うのです。しかしそれが本当に信用され、
実用的に使われるとそこで初めて問題になるということです。
なぜなら、実際にそれを信じることによって害が生じる
可能性が出てくるからです。

この「実生活」や「身近な」というのがニセ科学を考える上では
欠かせないキーワードなのではないか、と思います。


科学への信頼性

また、前の記事で中立的に書こうと
(というか、漠然とした対象を想像して書いたのがまずかったのですが…。)
あまりにも注意しすぎたため、本来僕が言いたかった主張を
十分に伝えることが出来なかったと反省しています。

僕は今回ニセ科学やそれに関する批判などについて知り、
また考えるにつれて、その背景にある盲信性に目がいきました。

そしてそれはニセ科学だけに留まらず、物事を判断する上で
誰もが突き当たる問題なのではないかとも思いました。
なのである意味これは自らに対する忠告のようなものでも
あったのです。

ではなぜ科学において盲信性があるのかというと、
そこにはまず科学に対しての信頼があるからです。

信頼性がどこから来るのかと言えば、
科学が実験と観察によって裏打ちされ、また、
常に反証可能であり、poohさんの言葉で言えば、
「ビルトインされた誠実さ」と言う事が出来るかもしれません。
科学が信用に足る、と考える理由は、そこに自らを疑いつねによりよいものとして更新していこうとする懐疑が常在しているからだと思う。これを「ビルトインされた誠実さ」と捉えてもいいのではないか。これは必ずしも自然科学だけではなく、社会科学にも、人文科学にも内在されている原理だ。

このことについては確かになるほどなと思いました。

信頼性っていうのはいろんなところから生じると思います。
例えば権威。教授や専門家だと聞けば、この人は信用できる
と思うはずです。これは発言者への信頼性ですね。

また、マスコミなどにも権威があると思います。
例えば新聞に書いてある記事なら信用性が高いと判断します。
(ここでは信頼性=信用性で使い分けに大した意味は無いのでご注意を)
それは誰が書いているかではなく、どこに書かれているかということです。
他にも「エコノミスト」に書かれている記事は信用するとかですね。

また内容に関して言えば、論旨が論理的であることや、
根拠がしっかりしていること(科学的な根拠などです。)が
挙げられると思います。

ということで考え付く限りだと、
(1)誰が、(2)どこで、(3)何を発言したのかで
信頼性が左右されるのではないかと。

この三つは相互に関係したりしているので、区別するのは難しく、
それを一々判断するのは労力がいる作業なので、
ある程度の妥協は必要な気がします。そこらへんは難しいですね。

科学に関してのみ言えば、
「ビルトインされた誠実さ」というのは考える価値がありそうです。
これについては再考したいです。


言説の有用性について

ではあまり一般的なことを考えても仕方が無いので、
科学だけでなく、こういう盲信性というか、
権威への信頼性みたいなものに対応するときにどうしたら
良いのかを考えてみたいと思います。

以前書いたのはその盲信性と相まって、その背後にあるかも
しれないイデオロギーなどに気づかないことが問題だ、ということです。

一つの対応方法としてはpoohさんが仰られているように、
コモンセンスで見極めるということです。
これはリテラシーを磨くということにもつながってくると思います。

そしてもう一つは、僕の考えなのですが、
言説の有用性について考えることです。

その言説を信用することでどのような利益があるのか、
また逆にどんな不利益が生じる可能性があるのか、
ということを考えてみる訳です。

これはその言説の真偽を判断し辛い時に特に
役立つのではないでしょうか。


前回も具体例として地球温暖化を使ったので、
今回も使ってみようと思います。

温暖化の問題は、温暖化があるのかどうかでは既にありません。
そしてその原因としては人為説の可能性が高まりつつあります。
(まだ異論はあるようですが。)
つまり人間の産業活動が地球の温暖化の大きな原因であるということです。

で、ここまでは良いとして、その対応策と言うと、
まだ意見が分かれています。さまざまなセオリーがあるし、
経済成長を抑えてまで温暖化防止対策を行うのか、それとも
経済成長に差し支えない程度で行うべきなのか、などさまざまです。
中には人間に出来る対応策が無いという説まであるようです。

また二酸化炭素などの温室効果ガスの排出を抑えるというのが
温暖化対策の大きな一つの案となっていますが、
この方針についてはむしろ環境云々以前に各国、各産業間の
イデオロギーが強いのかなという印象があります。


もちろん包括的には考えられていませんし、考察に不十分なところは
ありますが、とりあえず有用性について見ていこうと思います。

まず温暖化対策を行う上では、温室効果ガスの排出抑制以外に、
エネルギー効率を高めることや、資源の節約などの方法があると
思います。無駄を無くすのは、経済的にもプラスだし、
コスト減にもなるので、こうした対策を進めることは温暖化以外にも
良い影響を及ぼすと考えられます。
またそれにより技術革新が進むとすれば、それも経済的にプラスでしょう。
温暖化対策が結果的に環境問題全般への対策にもなる、ということも
あるかもしれません。

一方で温暖化対策に関してはマイナス面も考えられます。
具体的にはある国や産業が不利益を被るということです。

例えば京都議定書や温室効果ガス排出の枠組みを決定する際に
問題になるのが、公平性です。

16日付けの産経ニュース【主張】COP13閉幕 日本の「環境力」の出番だ
によると、国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議(COP13)に関し、
今回のバリ合意は、世界中の科学者を結集した「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第4次報告を踏まえた点が重要である。すべての国が、地球温暖化は疑いないとし、対策の必要性で一致したからだ。

 対策の必要性で一致したからには、今後は実行が問われる。その際に大事なのは公平性である。先進国と途上国間、先進国間、途上国でも新興国と後発国の間の公平性などだ。京都議定書では日本が事実上不利になっている。公平性に反するものだ。

と述べています。この公平性について日本は不利だったとの指摘がありますが、
京都議定書での排出削減目標は90年比であったため、
欧州に比べ既にある程度環境への配慮で排出削減が進められていた
日本にとってかなり負担の大きいものだったのです。
また、中国やインドが排出削減義務を負っていないのも
問題視されていますが、温室効果ガスの増加は主に先進国の
発展の過程で排出されたものであり、
それに対して経済発展を抑えてまで協力する必要は無い
という主張を取っています。

さらに公平性の問題に関連して、
温室効果ガス排出削減などを通し、先進国が途上国に対して
イニシアチブと取るというのも考えられるような気がします。
産業に対して介入する口実となるためです。これを中国やインドは
懸念しているのではないでしょうか。

他に、環境問題への対策ばかりに集中し、
アフリカなどで深刻なエイズ問題やその他の今後深刻になるであろう
問題への対策のプライオリティが下がることも懸念されます。


このように言説を直接判断するのが難しい場合、
それを信用し、あるいは採用して行動する際に、
どのような有用性があり、またどのような不利益を生じる可能性が
あるのかを考えてみると良いのかもしれません。

もちろんニセ科学というのは多くは注意して
科学的かどうかを見極めることが出来るとは思いますが。


以上長くなりましたが、
ニセ科学や科学的の定義などに不十分な部分があれば、
コメントなどで教えていただければ幸いです。
posted by Jack at 05:21 | Comment(20) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

2007年12月14日

慰安婦問題を考える。 この記事をはてなブックマークに登録

まずは13日付けのニュースより。

欧州も慰安婦決議へ 日本政府に公式謝罪要求(産経ニュース)
第二次大戦中の旧日本軍の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に公式謝罪などを求める決議案が12日、欧州連合(EU)の欧州議会(フランス・ストラスブール)本会議に上程された。13日夕にも討議の上、採決を行う予定。同種の決議は7月に米下院、11月にオランダ、カナダ両国の下院で採択されている。

<中略>

決議案は当時の日本政府が慰安婦徴用に関与したと指摘し「20世紀最大の人身売買の1つ」で、人権保障に関する条約などに違反していると非難。日本政府は歴史的、法的な責任を取り、公式に謝罪し、すべての元慰安婦の女性と遺族らに賠償するべきだと求めた。

 また、1993年の河野洋平官房長官(当時)、94年の村山富市首相(同)の談話などに言及した上で「過去数年間、日本の政治家らの一部に政府見解を希薄化、無効化する声がある」と指摘。学校教育でも悲劇を矮小(わいしょう)化する動きがあると批判し、是正を要求している。(共同)

共同通信がニュース元ですが、産経ニュースの方がより詳しいのでそちらから引用しました。

当時の慰安婦の事件に全く関与の無いカナダで決議がされたと思いきや(参照1参照2<英語>)、
今度は欧州会議で決議される可能性が出てきました。これについて嘆いても
仕方の無いことなのでではどうしてこのような状況になってしまったのかを
見ていくことにしましょう。

最初に今年七月の下旬、アメリカの下院で慰安婦決議案が採択されました。
慰安婦決議案採択 米下院(7月31日イザニュースより。)
米下院は30日の本会議で、慰安婦問題に関する対日非難決議案を採択した。決議に法的拘束力はないが、日本政府に公式謝罪を求めている。

<中略>

慰安婦問題をめぐっては、安倍晋三首相が4月末に訪米した際、ペロシ議長ら議会指導者との会談で、「人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれたことに申し訳ない思いだ」と語った。
 ブッシュ大統領は首脳会談後の共同記者会見で、「首相の謝罪を受け入れる」と首相の対応に理解を示しており、日米政府間では事実上解決済みとなっている。

これをきっかけとしてオランダ、カナダで決議が可決され、
今回欧州議会においてすらも可決されようとしています。

この動きは国内にだけ目を向けているとなかなか気づかないのですが、
国外の流れは非常に日本にとって悪いものとなっています。

そこで、どうしてこのような現状になってしまったのかを
国内と国外とのズレという側面から考えてみようと思います。


慰安婦という言葉について

ではまず慰安婦という言葉なのですが、Wikipediaによると(参考程度)、
慰安婦(いあんふ)とは日中戦争や太平洋戦争当時に、 慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍の軍人の性行為の相手になった婦女の総称である。戦後、人により従軍慰安婦とも呼ばれる。制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については、慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張もあり、旧日本軍のケースでは慰安婦を強制連行したのか否か、強制的なものであったか等の点に疑問が呈されており、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐって、今日まで、政治的・社会的に大きな議論を呼ぶ問題となっている。

ということです。

英語ではComfort Womanなどと訳される場合が多いです。
しかし時にはSex Slave(性奴隷)などと呼ばれています。
この言葉の問題は結構重要だと思うのですが、あまり慰安婦に関して知識の無い人が
Sex Slaveと聞けば誤解を招く表現です。


では議論されている項目についてですが、慰安婦は強制であったか、
そして、どれくらいの数の慰安婦がいたのか
この二つについて考えることが必要だと思います。


強制の有無

強制があったのかどうかが議論の大きな争点となっているのですが、
僕は少なくともある程度の強制はあったのではないかと思っています。
しかしそれは当時の状況などを考えれば別に異状では無かったはずです。
(というよりも戦時下というのがすでに異常な状況であった訳で。)

しかしでは軍による命令があったとするような文書などの証拠は
見つかっていないようなので(あったとしても残されないでしょう)、
あとは慰安婦や元兵士の証言に基づいて考えるしかありません。

1993年に河野洋平内閣官房長官(当時)が俗に「河野談話」と呼ばれる
慰安婦についての調査発表を行い、軍による強制性を認めました。
そして同年、村山富市首相(当時)が同様に謝罪しました。

また、狭義の強制性と広義の強制性という言葉の使い分けが
この論争の間で生じたのですが、これはあまり海外へは伝わらなかったようです。

強制性についての安倍元首相の対応

米下院でこの問題が取り上げられた時に、安倍元首相は狭義での強制性を否定する
などの言説を取りました。ここらへんは詳しく分からないのですが、
決議案に否定的だった安倍元首相は証拠が無い面を強調していましたが、
それが海外大手新聞紙によって強制が無い(つまり広義、狭義に関係なくNOである)
というように報じられ、国外の反発を強めることになってしまったようです。
(これについては、
[政治]従軍慰安婦問題:「狭義の強制性」表現を乱用して国際的誤解を生じるミスを犯している安倍政権
が詳しいので参考にさせていただきました。)

また、これは古森義久氏の記事(参照)でも、
安倍氏は従来、慰安婦問題に対してはわりに強い姿勢をとっていた。日本の非を事実調査の徹底を待たずにあっさりと認めて謝ってしまった「河野談話」には批判的だった。米国議会で慰安婦に関連して日本に謝罪を求める決議案が出されてすぐの今年春、当時の安倍首相は、いわゆる「狭義の強制性」を否定した。その否定が「日本軍の関与までを否定した」という米国大手紙などの虚報となって米側に伝わり、議会などでの反発を強めた。

のように端的にまとめられている通りです。

そしてワシントンポスト(3月23日)には、"Shinzo Abe's Double Talk"として批判されています。
これは二枚舌などと訳されているようですが、直訳すると
わけのわからない言説などという意味です。

この中で安倍晋三首相(当時)が北朝鮮に対しては拉致問題解決を訴えているのに、
自国で起きた慰安婦問題(文章内では数十万人にも及ぶ女性の誘拐、
レイプ、性奴隷化などと書かれています。)
を棚上げにしているとはどういうことだという批判が展開されます。

僕としては、これは拉致が戦後であり、慰安婦は戦時下の問題なので、
それを一緒にして論じている方が「わけのわからない話」だと思うのですが、
これだけに限らず安倍元首相の悪いイメージは加速していきました。
やはり一度河野談話によって謝罪がされているのにもかかわらず
それを覆したように受け取られたのがまずかったようです。
(これについては元外交官の佐藤優氏が外務省の失敗を批判しています。:参照

しかしここでさらにまた問題が起こりました。
先にイザニュースで引用したように4月末の時点で安倍元首相が
「人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれた
ことに申し訳ない思いだ」と述べたのが、外国の新聞では軍による強制を認めた
という報道になりました。これはどうやら誤訳(?)による報道のようです。
(参考:安倍首相「慰安婦への強制性」認めた? 英訳記事は誤報なのか
(さらにインタビューの全文があったので参考までに。)

そしてこの後は米下院、オランダ、カナダで可決され、
最初に出たニュースへと日本の国際的な立場はますます悪化していきました。


慰安婦の総数

被害者の数については多説あり、数千人とするものから、
数十万とするものまであります。

日本では多くても4万人以下とする秦郁彦氏の説や8万から20万人とする
吉見義明氏の説などが主だそうです(Wikipediaを参照しましたので参考程度に。)

しかし海外では主に数十万とする説と、20万とする説の二つで
固まっているようです。これは慰安婦問題に対して批判的な側からすれば
多い数を主張するのが当然なのかもしれません。
先に参照2で挙げたAFPニュースでは、
Opposition New Democrat MP Olivia Chow, who spearheaded the initiative, told AFP: "For me, this isn't crimes against 200,000 women. It's crimes against humanity and all of the world's citizens have a responsibility to speak out against it."(この決議案を先頭立って進めてきた野党・新民主党のオリビア=チャウ議員は、「私にとってこれは20万人の女性に対する犯罪ではなく、人道に対する罪です。世界中の市民はこれを非難する義務があるでしょう。」)

と言う風に使われていますし、先のワシントンポストでは、
数十万人というのが持ち出されています。

また、20万人というのは国連人権委員会に提出されたマクドゥーガル報告書
に記載されているようなので、これが国際的な根拠となっているのかもしれません。
(再びWikipediaを参照いたしました。)
しかし日本国内ですら総数で意見が分かれているのにもかかわらず
このように一方的な解釈がされているのは問題です。


このようなズレがどのように起こってしまったのかについてですが、
個人的にはまず日本人の議論(論文など)が英訳されることが少なく、
国外へ十分に議論内容が知られていないことがあり、
それと相まって北米の中国系が世論形成の主導権を握ったこと
があるのではないかと考えています。
中国系によるロビー活動はカナダ、米両国で見え隠れしています。

また、慰安婦問題を現在の視点から見て女性の人権侵害だと
主張する考えが登場し、アムネスティインターナショナルや
日弁連などのいわゆる人権団体が補償を求めている動きもあるのでは
ないでしょうか。

欧州の最近の人権問題への関心もあるのでしょう。
死刑問題に関して、EU内では廃止、あるいは実施しないという
流れになっています。


では海外での日本における慰安婦問題に関する考えを整理しましょう。

・日本における慰安婦問題は軍の強制である。
・人権上極めて罪の重い行いであった(被害者数の多さも加味しているはずです)。
・日本の謝罪は十分では無い(これは安倍元首相の件も関わってくると思いますが)。
・被害者への賠償をすべきだ。
・教育においても慰安婦をしっかりと認識する必要がある。(一部の主張でしょう。)

ということになります。


現状を踏まえた上での日本の今後のあり方とは

ここまで書いてみて、ではこれからどうすれば良いのか
ということですが、こうなってしまった以上、日本が反発すればするほど
世界の反感を買ってしまうことになりそうです。
今の世界における日本の慰安婦問題の認識がこのように形成されて
しまった以上、河野談話を撤回する訳にもいかないでしょう。
謝罪に関して言えば、しっかりと筋を通し、その上で
慰安婦における日本の認識を主張していく必要があります。


補償について、僕はよく分かりません。

しかし日本が補償をしてこなかったかというとそうではありません。
本来的な戦争における日本の行為に対する国家間の戦争賠償と補償は、
終了しています。(サンフランシスコ条約と個々の二国間条約により。)
また、慰安婦についてもアジア女性基金が補償を行ってきました。
(※2007年3月に解散)

また、今の人権意識の中で
戦時下という特殊な状況における日本軍の行いを扱うのはどうなのか
という疑問も残ります。
そして、もしこれを法的に裁くとなると(民事訴訟になるのでしょうか)
人道に対する罪などは事後法(戦後に作られた法)ですから、
戦時中の行いにまで遡って裁くというのはおかしい(法の不遡及である)
のではないかとも思います。


また、中国と韓国に関してはそれぞれ、
自国の個人による賠償請求権を放棄しています。
中国は1972年の日中共同宣言によって(参照)、
そして韓国は1965年の日韓基本条約と共に定められた諸協定のうち、
日韓請求権並びに経済協力協定によって(参照)定められています。
(中国の場合は個人補償までは明記していないので微妙ですが、
すでに中国人による個人補償請求が裁判で否決されたことがあります。)

もちろん国や機関が自発的に賠償することは可能なのでしょうが、
戦時中のことについては一応の決着を見ているので、
それはしっかりと認識しておく必要があるでしょう。

個人の賠償ははっきり言えばきりがありません。

しかし慰安婦が今も生存していることには変わりませんし、
彼女らに対する謝罪の気持ちを忘れてはならないし、
その存在を否定するべきではありません。


これを踏まえてしっかりとした外交を築いていかなければ、
これからもいつまで経っても日本は謝っていないと言われて
しまうし、非難の声は止みません。もちろんロビー活動などに
対してもきちんとした対応をする必要があるでしょう。
あまりにも日本は海外に対するメッセージ発信を怠ってきたように
思います。あるいはそうした意識が希薄だったのではないでしょうか。

僕は人権団体の動きについては今までは肯定的でしたが、
今回のように国家の利益(今回は国のイメージ、心象)と反する場合
(あるいは片方を立てればもう片方が立たないというトレードオフの関係)
もあるかと思うと複雑な気持ちでした。これについては中々難しいです。


以上長くなりましたが(おそらく今までで一番長い文章でしょう。)
事実誤認などがあれば指摘お願いします。コメントもお待ちしています。

2007年12月14日ノルウェーにて記。


追記:ここでは直接触れませんでしたが、
池田信夫氏が自身のブログで扱われている慰安婦問題について
読んだことが、この問題について考えるひとつのきっかけとなっています。

また、Wikipediaをあまり使いたくないと考えていますが、
新聞などや書籍にあたることが出来ないので、参考として
使いました。
posted by Jack at 12:41 | Comment(0) | TrackBack(1) | 時事・社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク |

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